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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

森友学園の話題をあまり聞かなくなるにつれ、民進党の将来を憂う話題を良く目にするようになりました。

直接には森友の追求で成果を上げられなかった一方、要職を辞任されたり、離党されたり、という事態が相次いでいるためです。

そんな中、西東京市選出の都議会議員、民進党の選挙対策委員長である石毛茂先生まで、離党届を出されるそうです。

http://www.asahi.com/articles/ASK4F3GYNK4FUTIL00D.html

なぜそうなっているのか、立て直すにはどうしたらいいのか、みたいな話はいろいろな方策があると思います。

また、多くの人が様々な提案されているとことでもあります。

なんですが、自分が蓮舫さんの立場になって、ではどうしたらいいのか、という目線で見ると、どうやって実行に移したらいいのか分からないことが多いのもまた事実です。

例えば、与党自民党との違いを明確にして、対案をしっかり出していくべきだ、というのはその通りだと思います。

しかし、これってなかなか難しいことだよなあと思わなくもありません。しかも、自分がやる!ということならまだしも、民進党という団体をそちらに向けなければならないわけです。

そのような党がどう変わるべきなのか、という議論と同じタイミングで、野田幹事長のコメントが報道されていました。

「ネットが一番つらい」民進・野田佳彦幹事長 党勢回復に苦しい胸の内

http://www.sankei.com/politics/news/170412/plt1704120032-n1.html

野田幹事長は、ネット上では、民進党に厳しい意見が多いと認識されているようですが、リアルでも厳しい意見の方が多いのではないでしょうか、と現状認識が大丈夫なのかを疑いたくもなります。

加えて、「発信だけでなく受け止めることが大事。みんなで徹して耳を傾ける運動をしていかなければいけない」は、もうどうにもいかがなものか、と思います。

もちろん、建前として仰っているのであれば、理解はできます。

政治家たる者、有権者の意見に真摯に耳を傾け、その希望を叶えるための政治を行う、理想論としては美しいように思います。

でも、一方で、有権者に状況を正しく理解してもらい、政策に賛成してもらうのも政治家の皆様の重要なお仕事ではないか、と思うのです。

森元学園の問題で、民進党に大きな痛手だった、つまり世論が民進党についてこなかった理由の一つは、辻元議員の疑惑です。

自民党や政権が事実の追求のための情報開示に応じなかったことに批判が集まっていたところで、自らも情報開示を行わない、姿勢を示してしまったところが問題なのです。

上記、野田幹事長のコメントにある「ネット対策は自民党より早かった」ですが、それなりの対策をされてこられた自負があるのだと思います。

正確に何を意図されているのか分かりませんが、推測するに、党のホームページの公開だったりするのでしょう。

そのような取り組みは、それはそれでもちろん大切なのだと思います。

ですが、言い換えると取組が早かっただけで、その後の運用がいまいちだった、のではないでしょうか。

具体的には、開示されている情報が「報道された事実」を前提にした意見に偏っているのです。

私は、他人の発信を受け止めることよりも前に、まずはちゃんと発信することを指導すべきだと思います。

ちゃんと発信する、というのは、「自分がどのような事実を前提に」どう思うかを発信する、ということです。

報道に条件反射のように反応されて、逆にネットで叩かれる民進党の議員の方が多くいらっしゃいます。これって、報道だけではなく情報を得て、それを元に判断されているはずなのに、それが伝わっていないから、叩かれているケースが多いように思うのです。

一例として、ガソリン疑惑で有名になった山尾先生。

山尾先生は自らの疑惑について調査するとおっしゃり、その結果がどうなったのか曖昧なままです。

ご自身のFaceBookなり、ブログなりで調査の経緯や、その結果が確認できないのです。

これが、発信されていない、ということです。

そして、そのような事実関係の認識が明確ではないまま、意見をされても、煽ることくらいしか反応のしようがない、状態になってしまっているのではないでしょうか。

事実というのは、ご自身が、どのテレビ番組に出るかとか、どんなイベントに参加したのか、とかそんなことはファンか友人でなければあまり興味を持たれないことではないんですが、この点にも誤解があるように思えます。

有名人の山尾先生はさておき、我らが西東京市選出の石毛茂先生のホームページの情報発信についても、大変失礼ながら、違和感を感じるのです。

ちなみに、石毛先生のホームページのデザインは、ベンチャー企業っぽい、今風の作りになっていて、手もしくはお金がかかっているなあと感心します。

ですが、内容は、、、全国13千万人の石毛先生のファンを除けばあまり興味のないニュースが並んでいます。

知りたいのは、どこの式典に行ったか、なんてことではなくて、豊洲について何が分かったのか、どういう認識でいるのか、そんなことなわけです。

あるいは、離党を検討されるに当たってどういうことを考えたのか、そんなことなわけです。

同じ西東京市選出の山田先生とは、大きな差がある、と言わざるをえません。

山田先生は、ブログの記載が元で、ネットニュース(Buzfeed)にも登場され、今やラッキーマンとして知る人ぞ知る存在です。

片や、失礼ながら、石毛先生は、政治活動費の使いみちがおかしいと報道されたくらい。

今のところ、西東京市で、都民ファーストの会が候補者を擁立する動きは報道されていないようで、残念です。

ねらい目だと思うんですけどねー、西東京市

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古今東西、関係者の証言は正しくない可能性が相当にある。

従って、証言を元に真実を追求するには限界がある。

最近の森友学園の問題でも、豊洲市場の問題でも、議会での事実の追求が叫ばれている。

しかしながら、大本のところで、納得できないことが二つある。

一つは上記の通り、証言が真実を明らかにする、という姿勢である。

そしてもう一つが、議員さんが真実を明らかにするような質問をする技術を持っているのだろうか、という疑問である。

特に後者については、事実を追求するインタビューについて、専門的な教育を受けておらず、その経験も乏しいと思われる議員の皆様にお願いするのは、そもそも無理がある。

加えて、選挙の際にその議員が選ばれるに当たって、インタビューの能力等、まったく判断する材料もないし、考慮されていない。

実際、国会の証人喚問にしても、都議会の百条委員会にしても、真実が明らかになった、と評価する向きはほとんどない。

もちろん、質問者の素質だけではなく、構造的なあるいはルール的な問題もあるのだろう。

虚偽の証言は罰則が適用されるといった手当はあるものの、証言の虚偽が分かるくらであればそもそも証言なんて必要ない。

また、議会での証言については、他の事案の審議が遅れるという弊害も指摘されている。

常々思うところだが、何故証人喚問等のインタビューを議会で行わなくてはならないのだろうか。

森友学園について野党は安倍首相夫人の参考人招致を求めているが、自民党は反対しており、実現のめどは立っていない。

議会でなければどこでやるか、テレビである。

議会からテレビに移行することのメリットは計り知れない。

まず、今まで述べてきたような問題点は概ね解消できる。

例えば、議会ではもっと議論すべき大事なことがあるだろう、という批判に応えることができる。

これは議会でより重要な問題を審議できるというメリットに留まらず、議会ではより重要な問題を議論するからインタビューを行うべきではないという反論を封じることにも繋がる。

時間設定なども自由に行うことができる。

各党、各会派で質問時間を奪いあうこともない。

質問する人が議員に限定されないので、もっとも真実の追求に適した人を用意することだってできる。

議会ではなく、テレビに移行することで、質問に答える人にもメリットがある。

議会では、証言するメリットがあまりないことが多い(阿部首相夫人などその典型だと思われる)。

しかし、テレビでは、出演料を支払うことが可能である。

また、議会では、進行の仕方を自分で選ぶことができないのに対して、テレビでは、これが可能となる。

例えば、誰に進行を任せるのか、質問/回答の時間はどう設定するのか、回答中のヤジや割り込みは制限できるのか。

このようなことをフリーハンドで決めることができる。

豊洲の問題を論じているテレビ番組が既にたくさんある。

そのような番組と何が違うのか、それは、コメンテーターに評価させる仕組みを取り入れないことだと思う。

インタビューだけを淡々と流せばいいのに、なぜ余計な編集・出演者を混ぜるのか。

忘れてしまいたい、忘れてもらいたい過去のことを黒歴史という。

この黒歴史、私には、何となく身近にあった言葉なのだが、1999年に放送されたアニメ「∀ガンダム(ターンエー・ガンダム)」で初めて用いられた用語だという(Wikipediaによると)

 

私は、自分に関連した過去、というと脈々として連続した時間ではなく、一定の出来事を最初に思い浮かべる。

寝過ごしてデートをすっぽかした夏の日、起きた瞬間の後悔から、お詫びのメール、2時間遅れで待ち合わせ場所に到着し半日そこに留まっている間に考えたこと、などなど。

高校生だった3年間はどうだったのか、みたいな振り返り方は他人から問われることなく行うことがない、とも言える。

 

保守という立場の人が言ったり、行ったりしている事柄の中に、私にはとても理解しずらかったことがたくさんある。

例えば、靖国参拝。

これだけ、中韓が嫌がっている中、何故、毎年閣僚が靖国参拝を行うのだろうか。

あるいは、最近話題の教育勅語。

総じていえば、戦前を肯定したい、と受け取られるような言動はどうして行われるのだろうか。

 

その理由として説明されることは、どれもそれなりに理解できないわけではない。

靖国参拝については、遺族会の意向を踏まえたものだとか。

あるいは中韓になめられない対応をすることが望ましいだとか。

日本を戦争ができる国にすることが安全保障上必要なのだとか。

戦争できる国で政権の権威を高めたいのだとか。

 

そのような理由はそれぞれ理解できるものの、いずれも、一部の人に熱烈に支持されるものであって、国民の多くに支持されるようなものではない。

一部の熱烈に支持する人たちの声が大きく、保守の政治家のみなさんは大多数の、明確に声をあげない国民の声が、支持者の声と勘違いしているのだろうか。あるいは、これまた強烈な、反論の声が挙がることが、自分の言動の正しさを確認させることになっているのだろうか。

 

ずっと、このような保守主義の政治家が国民の声を勘違いしているという前提に違和感を持ったまま、気持ち悪さを抱えて生きてきた。

しかし、最近の天皇陛下の譲位や、教育勅語に関する話を見ている中で、保守というものの捉え方が間違っていた、あるいは浅かったのかも、と思うようになった。

保守とは何だろう、を一言でいえば、過去の肯定、なんじゃないだろうか。一歩踏み込んで言うのであれば、無条件の肯定、と言ってもいい。

 

辞書的な定義によれば、保守は伝統を尊重し、現状維持を求める思想である。

この定義は、保守が問題に直面した際にどう対応するか、という将来について述べているが、問題に直面していないときの言動や、過去の捉え方については述べていない。

だから現実に保守の政治家の言動、あるいはその言動の裏側に存在する(と保守の政治家が考える)日本国民の意思が理解できなくなってしまうのではないか。

言い換えると、保守、という言葉が辞書的な定義で使われていないのではないか。

 

しつこいようだが、繰り返し述べると、過去を肯定することは、その過去を繰り返すことと同義ではない。

少なくとも、保守の政治家はそう考えているようには見えない。

 

先ほど挙げた理解しずらい言動が、「過去を肯定する」保守、という観点からみるとすっきりする。

靖国参拝については、私たちの祖先が亡くなったことの慰霊である。過去、つまり戦前に戦争で亡くなった人を肯定する、という立場からは参拝は当然なのだろう。

ポイントは、ではその祖先の行った行為、あるいはその結果についてどう考えているのか、であるが、恐らく、特に何も考えていない、のではないか。

 

日本は戦後、戦前を誤った時代と断じてきた。

日本という国は敗戦したのであるから、何かがおかしかったことは間違いない。

では、一体何が間違っていたのだろうか。

主たる原因を探す(軍国主義が問題だ、全体主義が問題だというように)のではなく、どこまでは間違いの主体であったのかを考える際、私たちの祖先が間違えた責任の一端を担うと考えるのか否か、責任はないと考えるのが保守なのではないか。

 

例えれば、戦争が天災であったと考えてみればいい。

戦争に赴き、命を落とした私たちの祖先は巻き込まれた人たちであって、その時代を必死に生きたのだ、と認識する。

そう考えれば英霊を弔うことは何ら不思議ではない。

 

戦後、日本は徹底的に戦前を批判してきた。

戦争を二度と起こしたくない、そのためには、戦前的なるものをあまねく否定することが一番分かりやすかった。

特に、戦前から戦後へと生き抜いた人たちにとっては、過去を失敗と見ることに抵抗がなかったのだろう。

しかし、その人たちは、自分達の祖先が失敗したとは考えておらず、日本民族を今に繋いでくれたという尊敬を持っている。

現代の私たちは、自分たちの祖先を総体としては尊敬しつつ、戦前戦後の過渡期を生きた人たちだけを否定する、という難しいことを担わされており、それが嫌だ、祖先はいっしょくたに尊敬したい、という単純化は理解できる。

 

暴論ついでに、この時期、天皇陛下の譲位がクローズアップされ、天皇や皇室に注目が集まるのは、不幸な一致だと思う。

昭和、平成の両天皇は、国民のために心を砕かれ、結果として、国民から敬愛される存在になってしまった。

日本国民の一体性を象徴する天皇が素晴らしいのに、戦前が否定されるべきというのは、分かりずらいのだ。

 

繰り返し確認したいのだが、戦前を否定しないことは、戦前に戻りたい、あるいは戦争をしたい、ということと同義ではない。

同義ではないが、そのような懸念が生じるのも、無理からぬことであるように思える。

懸念が生じるとはいえ、保守の発想は、伝統でもあり、思想として許容されないモノとも言い難い。

以上を理解した上で共存の方法を探る必要があるのだろう。

西東京市選出の都議会議員、自民党の山田先生は今年2017年の東京マラソンに出場されたのでしょうか。

公式Blogに情報をアップしていただけないので、悶々とする毎日が続いております。

 

倍率10倍超の東京マラソンに10回連続出場?! 驚異の都議に実態を聞く

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160329-00010000-bfj-soci&p=1

 

しかし、山田先生ほどの幸運の持ち主について、ネットニュースくらいしか取り上げられていないのは、大変もったいないように思うところです。

もっと多くのマスコミが山田先生の幸運を世の中に知らしめ、幸運のペンダントのCM話などがバンバン山田先生のもとに舞い込むようにならないものでしょうか。

 

さて、そんな山田先生と同じ自民党に所属されている務台俊介センセイに再びスポットライトが当たっています。

務台センセと言えば、台風災害の視察に長靴ではなく革靴で参加し、職員におぶってもらって水たまりを渡って脚光を浴びた国会議員さんです。

当ブログでも過去に取り上げたことがあります。

 

60歳の要介護者がいたっていいじゃない、それが多様性でしょう?

 

前回は行動して見せつけた務台先生、今回は言葉で注目を集めました。

その内容は、前回の騒動で、政府が長靴を購入するようになったので、長靴業界は儲かったのではないか、というもの。

私、個人的には好きなんですけどね、自虐ネタ。

好きではない方も多かったようで、批判が相次ぎ、辞任されることになってしまいました。

 

これってユーモアですよ、自虐ネタの。

対象を不快にさせることなんてこれっぽっちもないユーモア。

そんな発言が許されないってどういうこと?というのが私の第一感です。

(なお、公明党の山口代表が「安易に笑いを取るのはやめろ」とおっしゃっているそうです。もちろん、山口さんのお立場からそうおっしゃるのはすごく理解できます。でも、そのくらいのいい加減さをも許されない社会が本当に望ましいのでしょうかねえ)

http://www.asahi.com/articles/ASK3B3F5XK3BUTFK004.html

 

元々のおんぶ騒動にしたところで、分かりやすく取り上げやすい、以上のことなんてありません。

被災者にどう映るか、なんて批判はこじつけですよね。

務台さんはおんぶ騒動について報道してくれなんて言っていない、どころか報道しないでくれ、と言っているわけです。

それでも広めた人、それこそが被災者の感情を害している張本人です。

今回も同じく、被災者の感情が、云々言われていますが、務台さんが被災者に向かってそんなことを言っているわけではないわけです。

だいたい、被災者感情なんて、務台さんが美味しいもの食べてる!ってだけでも害されるわけです。

自分達のことを考えてくれていない、なんて批判、どんなことでだってできてしまう、ということです。

 

この手の失言問題が発生するたびに、言う必要もないこと言うから、という批判がなされますが、これもどうかと思います。

自分が務台さんの周りで働いていると想像してみてください。

長靴、という単語で務台さんがどれだけ深く傷つくか、怒りだすか、分からないのです。

おんぶもダメ、もしかしたら岩手というたびに緊張している可能性だってあります

そんな周囲の緊張を和らげようとされた可能性だってあるわけです。自虐ネタで。

 

私は務台さんが政務官としてどんな仕事をされており、その成果がどうだったのか、について全く報道されていないことが非常におかしいと思っています。

大事なことはそっちでしょう?

正直、しっかりやっていたとも、特別優秀だったとも思えないのですが、そっちを問題にすべきなんじゃないでしょうか。

 

しかし、務台さんにとっては揚げ足取りをされたようで、大変、アンラッキーだな、と同情します。

ぜひ、ご自身の仕事の成果を、自身のブログなりで開示され、信頼の回復に努めていただくとともに、西東京市にいらして山田先生から幸運の秘訣を聞きだしていただきたいものです。

西東京市の市長選挙が2月5日に行われ、現職の丸山市長が再選された。

驚きの無い選挙だった。

 

何点か、気になったことを備忘がてら。

 

■投票で、候補者名を書くことが必要なのか

今回に限らず、選挙では投票する候補者の名前を書く。

これって必要なのか、といつも思う。

現在の法律でどうか、ではなく、この先も投票の度に、候補者の名前を書き続けなくてはならないのだろうか。

めんどくさくない?

というか、私は投票用紙に鉛筆で字を書く、あの感触が嫌なのだが。

 

この話が複雑なのは、電子投票が絡むからである。

電子投票を実現するためには、費用(特に初期コスト)の問題など、解決しないといけない課題がいくつもある。

しかし、今のところ、有権者にはもっとも便利な投票方法であることは間違いない。

そのため、課題がクリアされれば、電子投票に以降するのだろう、と想像される。

その時には、候補者の名前を記入する、という話は当然のことながら存在しなくなる。

 

問題はそれが何年先になるのか、分からないことである。

もしかしたら、いつまで経っても実現しないのかもしれない。

いや、もう今の子供が生きているうちに実現しないのであれば永遠に実現しないのと何ら変わりがない。

 

とすれば、暫定的なものになってしまうとしても、別の方法を考えてみることは有効であろう。

その一つが、マークシート方式である。

マークシートというと、試験でやったよ、という方が多いと思う。

そこまでしなくても、候補者の名前を書いておき、投票する人に〇をつける方式でもいいと思う。

実際に、国民審査では実現しているため、技術的に難しいことはないように思うのだが。

 

■選挙のコストは下げられないのか

今回の選挙にかかるコストを劇的に下げる方法が一つある。

それは、選挙を行わないことである。

 

立候補者が一人の場合、選挙が行われず、無投票で立候補者が当選する。

そうすると、選挙が行われず、結果的に選挙コストが安くなる(タダになるわけではないが)。

今回の西東京選挙は、候補者が二人いたから選挙が行われ、コストがかかったことになる。

 

言うまでもなく、コストを掛けないために選挙を行わないことが一番良い、ということはない。

権力の暴走を防ぎ、民主主義を維持するためには、ただ漫然としていてはいけない、コストを書けてでも民意を確認することは必要である。

一般論としては正しい。

 

ただ、今回の西東京の市長選挙はそこまでして、コストをかけて民意を問う必要があったのだろうか?

恐らく、大多数の人は、そうは思っていないはずだ。それは投票率が40%にすら満たなかったことからも明らかだ。

 

繰り返し強調しておきたいのだが、少数意見は顧みる必要がない、という話ではない。

少数意見のために、コストを負担することも不要だとは思わない。

ただそれは、選挙を行い、市の財政に負担をかけることが無条件に認められることではない。

選挙に出馬する自由は、当然に認められるべきである。

 

しかし、その自由は無条件に行使していいわけではないのだ。

自由を行使することは、説明責任とセットである。

ぜひ、今回の市長選に出馬したことで、何が得られたのか、どうして立候補する必要があったのか、改めてご説明をいただきたいものである。

■まとめ?
選挙当日の夜、晩御飯を食べながら、杉山さん個人というより陣営ってどういう状況なんだろうと想像していた。
数千万の選挙費用を使い、負けるべくして負ける。
私だったら、いたたまれない。
どんな気持ちで、何を食べたのだろう。
どんな夜を過ごすのだろう。

こんなの妄想ではあるものの、わびしいなあ、と市民に思わせないような政治を期待したいと私は思う。

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