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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

シルバー民主主義という言葉を聞くと、私は、なんだかほっこりした気持ちになる。

のんびりしたイメージがあるからではない。

そもそも、シルバー世代(高齢者)ってあんまりのんびりしていない、どころか若者よりもせかせかしている方も多い。

■シルバー民主主義とは何か

日本の人口構成において、高齢者の占める割合は年々増加している。

当然のことながら、有権者における高齢者の占める割合も、同じように年々増加している。

ここまでは事実である。そして、この傾向は、近い将来は変わらないと予測されており、これも異論ない。

高齢者の割合が増えた結果、高齢者に望まれる政策を主張することで、より選挙に当選しやすくなる。

これもまあ理解できる。

問題はここからだ。

「高齢者に望まれる政策」は、高齢者以外(以下では若者という)には望まれない政策であるため、日本では若者に必要な政策が実行されない、これをシルバー民主主義という、らしい。

言い換えると、シルバー民主主義では、高齢者が優遇されがちである、という主張である。

本当だろうか。

高齢者に望まれる政策と、若者が望む政策が、必ずしも相反するものではないのではないか。

■シルバー民主主義では高齢者が優遇されるのか

例えば、北朝鮮の軍事的脅威に対して、日本としてどう対応していくのか、について、高齢者と若者で利害関係が相反することはないだろう。

加計学園を巡る疑惑に対して、であるとか、自衛隊の日報を巡る問題に対して、であるとかについても、世代の違いでの意見の違いはないはずだ。

もちろん、年代によって意見に偏りがでることはある。

ただ、それは、年代が理由で意見が異なるのではない、と言うことだ。

一方で、明確に世代で意見が分かれる、と言われる事柄もある。

例えば、税金という有限の資源のうち、どの程度の金額を医療費に向けるのか、どの程度を子育て支援に向けるのか、という問題は世代で利害が分かれそうである。

しかしこれも変な議論であるように思える。

何故なら、医療費の問題にしても、子育て支援の問題にしても、その世代の全ての人に関連する議論ではないからだ。

更に加えて、多くの人にとって「家族」が今なお経済活動の基盤となっていることを踏まえると、私は若者だから老人の医療費にはお金を使うべきではない、という意見は、家族(祖父母や父母)が病気になった時、自分の家計を圧迫する要因になるのであるから、あまり多数意見ではないはずだ。

と言うわけで、私は、有権者に占める高齢者が増加することで、高齢者を優遇する政策が実行されているとは思っていない。

個々の政策について、高齢者が優遇されているように思われることはもちろんあるのだが、それは有権者の割合とは関係ないように思える。

■シルバー民主主義は何を意味しているのか

では、シルバー民主主義と言うのは、無視しておけばいい主張なのだろうか。

わたしは、そうは思わない。

政治、というものを歴史的に振り返ってみれば、それは専制君主(いわゆる王様)の、王様による、王様のためのものであった。

そして、王様に群がる人々のうち、権力のあるものから順番に優遇されるようなものであった。

民主主義とは、これを否定した、人民の、人民による、人民のための、を理念とする政治形態である。

形式的に民主主義をうたっていても、実際にはそうなっていない事例なんて世界中で山ほどある。

国内に目を向けたって、地域政治はそうなっている状況がまだまだ多分にある。

ところで、少なくとも民主主義が成立していない状況では、シルバー民主主義は成立しない。

言い換えると、シルバー民主主義について議論されている状況は、民主主義が確立していることを前提にしているのである。

わたしがとりあえずほっこりしてしまうのはこんな望ましい状況に対して、なのである。

そして、シルバー民主主義よりも望ましいのは、ゴールド民主主義なのかなーと思うし、それはちょっと成金みたいだから、シルバーでいいんじゃないかな、と思っている。

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イメージとリアルにはずれがある。

日本が観光立国を目指すに当たっては、このずれを解消する必要がある。

解消の方向は大きく二つある。

一つはイメージをリアルに近づけることである。

そしてもう一つは、リアルをイメージに近づけることである。

例えば、日本とは侍と芸者と忍者と不眠不休のサラリーマンがいる国だと思われており、それを目当てにする観光客が世界各国から殺到しているのだが、そのどれも大変貴重であって、実際に目にすることは難しく、私たち日本人でさえ、ほとんど見たことがないはずだ。

イメージをリアルに近づける場合、海外のメディアに日本の現状(サムライなんていない)を宣伝してもらう、入国ゲートで日本では芸者は大金を支払わないとまず出会えないと書かれたパンフレットを頒布する、と言った方法が考えられる。

他方、リアルをイメージに近づけるためには、サムライや忍者を増やせばいい。

この忍者を増やすことがいかに難しいのか、をテレビが取り上げている。

というWebの記事を見た。

https://www.j-cast.com/tv/2017/06/02299643.html

正直、忍者はどうでもよいのであるが、忍者養成スクール「アストアクションスクール」が西東京市にあるとは驚いた。

これ、西東京市は全国屈指の忍者の輩出地域ってことだ。

しゃきしゃき体操やる前に、小学校の授業でも忍者になるための初歩を教えるべきではないだろうか。

なお、アストアクションスクールは体操教室であって、忍者を育てているだけではないので、忍者養成スクールと呼ばれることを、ご本人たちが歓迎しているのかよくわからない。

さて、日本の終戦記念日は、朝鮮半島の終戦記念日と同日でありながら、その内容は180度異なる、考えてみれば当たり前であるが。

その朝鮮半島を巡る緊迫は、とりあえず小休止しているようだ。

直近の騒動は、北朝鮮がグアムに向けて(正確にはグアム近くの海域に)ミサイルを発射することを計画している、と発表したことが契機の一つである。

この問題が、大変不謹慎ながら興味深いのは、北朝鮮からグアムに向けて放たれたミサイルが日本上空を通過するからである。

日本上空をミサイルが通過することには二つの問題がある。

まず、予定した通りの航路でグアムに向かわず、失速して日本に落ちてくる可能性がある。

これに対しては、日本のミサイル防衛システムで対応することになる。

具体的には、空中でミサイルを撃ち落とす、もっと言えば爆発させてしまう。

北朝鮮の発射したミサイルは空中でなくなってしまうのではなく、バラバラになるだけなのでその破片が落ちてくる。

それでも、ミサイルが直撃するよりも被害が少なくなる。

このケースでは、どの時点で日本に落ちてくる可能性が高いと判断して、迎撃するのか、が問題になる。

が、防衛省の判断の話なので、ここでは立ち入らない。

そして、これを前提にもう一つの問題を考えてみたい。

それは、日本上空を無事に通過そうなミサイルは撃ち落とす必要があるのか、ないのか、である。

グアム(アメリカ)からすれば、撃ち落としてしまいたい、であろう。

絶対にグアムに落ちてこない、という確証も信頼もない中、被害が生じる前にできることはしておきたいと思うのは当然だと思う。

アメリカから撃ち落としてほしいと要請を受けた場合、あるいは何もしないでほしいとお願いされなかった場合、を想定してみる。

アメリカの希望に従ってミサイルを迎撃することで同盟国アメリカに感謝される可能性が高い。

一方で、ミサイルを迎撃すると前述の通り、日本に破片が落ちてきて被害が生じる可能性がある。

わたし個人は、どんな要請があろうとも日本に向けられたミサイルあるいはグアム住人に明確な被害の生じる可能性が確認されるミサイルでなければ迎撃すべきではない、と思う。

この意見が国民的な総意ではないことは承知しているし、国民的な総意が得られるよう議論を深めていく必要があるとも思っている。

しかし、今、この瞬間にでもミサイルが発射される可能性がある中で、その議論を深めるよりも先にしなくてはならないことがあると思っている。

それは、この判断を政府に一任することである。

少なくとも事後的に判断を非難されることがないようにしなければならないのではないだろうか。

長期的な議論の方向性としては、日本国民が全員、忍者としての修業をして、ミサイル迎撃で生じた破片を避ける、ということも考えられる。

そのためにも、早く、忍者と言えば、伊賀でも甲賀でもなく、西東京市、というイメージを全国に広めていくべきではないだろうか。

 

コミュニケーション能力を向上させる方法は二つあります。

一つは、言うべきことを、言うこと。

そしてもう一つは、言うべきではないことを、言わないこと。

コミュニケーションに悩んでいる人に対していろいろなソリューションが提供されています。

本屋に行くと、たくさんの本が並んでいます。

Googleで検索しても、たくさんのページがヒットします。

その中には、相手に好かれる話し方とか、理解してもらえる伝え方とか、たくさんの技術・テクニックがあります。

しかし、体系立てて考えてみると、全ての話が、この二つの基礎の上に成り立っています。

物事の基本となるのは何か?を考える際には、そのことについて何も知らない人に対して、まず何から教えるのか、を考えてみることが有効です。

何も知らない人とは、多くの場合、子供が一番適しています。

子供に対して、最初に教えるのは基本の二つのうち、言うべきことを言うこと、です。

初めは痛かったら教えて、お腹が空いたら教えて、オムツが濡れて不快だったら教えて、という具合ですね。

言葉が話せるようになると、美味しくないものは放り投げるのではなく教えてほしいとか、泣いてないでどうしてほしいのか教えてほしいとか。

さらに、挨拶しよう、お礼を言おう、と続きます。

言うべきではないことを言わないことは、言うべきことを言うこと、より若干遅れるものの、並行して教えることになります。

初めは、何であれ話してはいけない場所を教え、次第に、外食している場所ではウンチって言わない!みたいなことを教えます。

言うこと/言わないこと、いずれも子供の学習が進むにつれて、しなければならない、から、した方がいい、に変わっていきます。

子供の学習が進む、というのはTPOによって変わります。

子供同士の話であれば、幼稚園に入る、という段階の話ですし、目上の人(特に先生)との話であれば、高校に入るくらいの話です。

ここで指摘したいことは、しなければならない、ができるようになったから、した方がいい、に進むわけではないことです。

この変化は、何かを学んだから生じるわけではなく、子供の関与する世界が広がったときに、広がった先では、基本的には、しなければならない、がほとんどない、ことに由来します。

なぜ、広がった世界では、しなければならないがないのか、それは広がった世界が、その世界に属し続ける必要のない、言い換えると、離脱可能な世界であるからです。

さて、子供たちは大人になる前に、この言うこと/言わないこと、のうち、言わないこと、についてのルールが根本から変化します。

しかも2回。

2転するのです。

1回目、それは、表現の自由、を学んだときです。

何故なら表現の自由とは、言ってはいけないことなどない、ということだからです。

では、これまで言ってはいけないと教えられてきたことは何だったのか。

それは他者にとって都合がいい、あるいは、自分の評判を作り、守るための、そうした方がいいこと、だったということです。

そしてさらにもう1回。

こちらは就職したときです。

就職するということは雇用契約を会社と結ぶことです。

そして、表現の自由は、契約によって制限されることを学びます。

パワハラ、セクハラは、解雇事由になるということで支えられ、表現の自由を制限しています。

言ってはいけないこと、が復活するわけです。

表現の自由、について考える際に、問題を複雑にしているのが、歴史的経緯が作り出す葛藤です。

一方で、他人の表現を制限したいという欲求は誰しも持ち合わせています。

そんなことを言うべきではない、という主張はいつでもあるということです。

その中には、相当程度の人が同意するであろう事柄もあります。

しかし、また一方で、表現を規制することを認めると民主主義の根本が揺らぐ、という歴史的事実もあります。

埼玉県警が漫画家に異例申し入れ 強制わいせつ容疑の男「漫画の手口を真似した」と供述で

http://www.huffingtonpost.jp/2017/06/13/saitama-police_n_17086002.html

私は、表現の自由の名の元に、表現に規制をかけない、というのは絶対変えられない原則だとは思っていません。

ヘイトスピーチを初め、社会的に合意された規制はありうると思っています。

また、医事法を初めとした広告規制も既に存在しています。

自民党の憲法改正草案では、表現の自由には手をつけず、結社の自由にのみ、限定されてはいるものの、制限を加えています。

https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf21条をご参照ください)。

しかし、私は現状と整合が取れていないことから、表現の自由は一定の制約を受けることも検討されるべきではないでしょうか。

都議会議員選挙が近づく中、我らがひばりヶ丘にも、小池都知事がお越しくださいました!

当日は、晴天とは程遠いくもり空。

ひばりヶ丘南口は、パルコの前を中心にして、サーティワンの前からパルコと西友の真ん中にある駐車場の前まで、扇形にたくさんの人が集まっていました。

駅前の再開発がまだ途中とはいえ進んでいて本当に良かった、と丸山市長の先見の明、そして自民党でありながら都民ファーストの会のために尽力されるココロの広さに感じ入った次第です。

小池都知事は予定の10時半になっても現れず、演説カーの上で必死で場を繋ぐべく話し続ける男性(誰だか私は知りません)が、腕時計を見たり、西友の脇から田無駅へと至る道を見たりしている姿が、サラリーマンの辛さを感じさせてくれました。

また演説カーを取り囲むSPの皆様の緊張感あふれる顔が印象的でした。

まず到着されたのが、都民ファーストの会の公認候補である桐山ひとみ市議会議員。

颯爽と演説カーへ乗り込む姿、よく通る声、きびきびされています。

演説の中身は、恨みつらみというか、なんというか。実名出してお話しされた方がもっと面白いのではないでしょうか。

桐山議員の演説中に登場されたのが小池都知事。

事前の場繋ぎで、緑のコスチュームに身を包んで登場します!と言われていたので、期待してみていたら、ジャケットだけが緑でした。

ちなみに移動車も緑じゃない、白のエスティマでしたね。

小池さんの演説は、聞いている人に語りかけるような、でも砕けすぎていない、上手なものだなと思いました。

都政での実績のアピール、桐山議員の紹介とよどみなくお話しされていきます。

桐山議員の紹介については、全部聞いていたわけではないのですが、しゃきしゃき体操に言及されなかったことが残念でした。

西東京市発、東京でくまなくしゃきしゃき体操が踊られ、新たな東京名物となるはずなのに。。。

注目を集める都議会議員選挙、旋風を巻き起こしている小池都知事の登場、と舞台は整っているものの、これだけの人が集まると言うのは、やはりすごいことだと思います。

同日の夕方、山田都議が同じ場所で演説されていましたが、聴衆ってほとんどいなかったですからね。

西東京市の選挙区では、桐山市議、山田都議に加えて、もう二人候補者がでる予定です。

民進党の選対委員長でありながら離脱され、無所属(都民ファーストの会推薦)となった石毛都議。

共産党の若手で、ビラ配りが年配の人たちなために老人をこき使っているようにも見える中村氏。

自民党の山田都議って、ひばりヶ丘駅周辺では、朝立って演説しておられたり、選挙カーで回られたりしておられますが、いつも一人な印象があります。

今回は楽勝と踏んでおられるのか、自由人なのか、その他の理由なのかは知りませんが。

いずれにせよ、予断を許さない、熱い選挙になってほしいものです。

お口にチャック、というのは日本語でも英語でも同じ表現であることはよく知られていますが、続きがあることはあまり知られていません。

CMで使われたフレーズの一部だけが有名になったのです。

元々のフレーズは、「お目々ぱっちり、耳ダンボ、お口にチャック」です。

かわいい子役の女の子が机に向かって座りながらこのフレーズを口ずさみ、正面にいる大人の男性から、よくできました、と言われると、手話で(画面に文字が映し出され)、手には鉛筆、と言いながら鞄の中から筆箱を、そこから鉛筆を取り出す、という鉛筆のCMなのです。

さて、ひばりヶ丘駅南口は工事の影響で道幅が狭くなっていて、セブンイレブン側から駅の階段に向かう場所は朝、混雑しています。

この場所ですが、今さら申し上げるまでもなく、ひばりヶ丘周辺における街頭演説のメッカとなっており、多くの政治家の先生をお見かけすることができます。

最近では、都議会議員選挙が近いことから、現職、共産党の新人の方が演説をされています。

演説されるのはいいのですが、ビラをまかれると、ただでさえ混雑している通路の進みが悪くなります。

進みが悪くなるとよりじっくり演説をうかがうことができるわけです。

通路の流れがいいときにはお名前と、そこで演説されていたという事実、そしてキーワード(共謀罪とか、森友とか、豊洲とか)が頭に残るわけですが、それ以上のことが、例えばこの人、共謀罪について理解しているのかしら?ということが頭に残ってしまうということです。

そんな朝の喧騒にあって、日本人の美徳である謙虚さを体現される候補者もおられます。

都議会議員の山田先生です。

山田先生はまず、立ち位置、これ本当に空間的に立っている位置の事ですが、これが素晴らしいです。

Emioの潰れた居酒屋(の階段、今シャッターが下りてますが)の前。

通行の妨げとならない場所に陣取られるようご配慮されているのだと思われます。

立ち位置の次に指摘したいのが、ビラをまかない、という点です。

ビラというのは紙であり、エコでないことは明白です。

ビラを撒く人の存在は通行の妨げとなることは上記の通りです。

地球にも、通勤・通学するひばりヶ丘駅利用者にも優しいのです。

そして何より強調しておきたいのが、演説そのもの、特に音量についてです。

拡声器を利用することなく(これも無駄に電気などを使わないエコの一環ではないかと思います)、ご自分の肉声でのみお話しをされています。

さらに重要なのは、声を張られるわけでもなく淡々とお話されている、ということです。

何をお話しされているのか私には聞き取れませんが、そのことが逆に、通行人の妨げにならないよう細心の注意を払っておられることの証であると言えるでしょう。

人に聞きとられないように話すことは、通行人にやさしいという他人への配慮だけではなく、政治家としてご自身を守るためにも必要なのかもしれません。

例えば、同じ自民党の、今村復興相が失言で辞任されていますが、聞こえるように言わなきゃ辞任に至らなかったのかもしれません。

http://www.asahi.com/articles/ASK4T64WWK4TUTFK01H.html

個人的には、そんなこと言ったくらいで辞任するの?と思います。

前後の文脈からは、被災者に悪意があったり、被災者を軽視したり、という発言ではないからです。

もっと他の言い方があったとはもちろん思います。でも、多くの新聞やテレビがこの発言を報じており、より多くの被災者を不快にしていることを思えば、誰かを不愉快にしたことは辞任には値しないのではないでしょうか

先日、テレビでお見かけした石破前地方創生大臣が語った言葉が私にはとても重たくて深いと思いました。

「ミサイルが一発落ちれば日本人も目を覚ますだろう、ということは政治家が決して口にしてはならない」

正確な引用ではないですし、以下は私の感想ですが、「口にしてはならない」のです。

言い換えれば、想定することや、実現するための方法を取ることはありうるのではないでしょうか。

混雑するひばりヶ丘駅南口の階段したで口をつぐんでいるのは山田先生だけではありません。

多くの通行人はモノ言わずに歩き去っているのです。

それを忘れるべきではないのかもしれません。

念のため、冒頭のCMの話は私の創作です。

口を開けば余計なことを言う、は肝に銘じておきたいものですね。

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