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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

忘れてしまいたい、忘れてもらいたい過去のことを黒歴史という。

この黒歴史、私には、何となく身近にあった言葉なのだが、1999年に放送されたアニメ「∀ガンダム(ターンエー・ガンダム)」で初めて用いられた用語だという(Wikipediaによると)

 

私は、自分に関連した過去、というと脈々として連続した時間ではなく、一定の出来事を最初に思い浮かべる。

寝過ごしてデートをすっぽかした夏の日、起きた瞬間の後悔から、お詫びのメール、2時間遅れで待ち合わせ場所に到着し半日そこに留まっている間に考えたこと、などなど。

高校生だった3年間はどうだったのか、みたいな振り返り方は他人から問われることなく行うことがない、とも言える。

 

保守という立場の人が言ったり、行ったりしている事柄の中に、私にはとても理解しずらかったことがたくさんある。

例えば、靖国参拝。

これだけ、中韓が嫌がっている中、何故、毎年閣僚が靖国参拝を行うのだろうか。

あるいは、最近話題の教育勅語。

総じていえば、戦前を肯定したい、と受け取られるような言動はどうして行われるのだろうか。

 

その理由として説明されることは、どれもそれなりに理解できないわけではない。

靖国参拝については、遺族会の意向を踏まえたものだとか。

あるいは中韓になめられない対応をすることが望ましいだとか。

日本を戦争ができる国にすることが安全保障上必要なのだとか。

戦争できる国で政権の権威を高めたいのだとか。

 

そのような理由はそれぞれ理解できるものの、いずれも、一部の人に熱烈に支持されるものであって、国民の多くに支持されるようなものではない。

一部の熱烈に支持する人たちの声が大きく、保守の政治家のみなさんは大多数の、明確に声をあげない国民の声が、支持者の声と勘違いしているのだろうか。あるいは、これまた強烈な、反論の声が挙がることが、自分の言動の正しさを確認させることになっているのだろうか。

 

ずっと、このような保守主義の政治家が国民の声を勘違いしているという前提に違和感を持ったまま、気持ち悪さを抱えて生きてきた。

しかし、最近の天皇陛下の譲位や、教育勅語に関する話を見ている中で、保守というものの捉え方が間違っていた、あるいは浅かったのかも、と思うようになった。

保守とは何だろう、を一言でいえば、過去の肯定、なんじゃないだろうか。一歩踏み込んで言うのであれば、無条件の肯定、と言ってもいい。

 

辞書的な定義によれば、保守は伝統を尊重し、現状維持を求める思想である。

この定義は、保守が問題に直面した際にどう対応するか、という将来について述べているが、問題に直面していないときの言動や、過去の捉え方については述べていない。

だから現実に保守の政治家の言動、あるいはその言動の裏側に存在する(と保守の政治家が考える)日本国民の意思が理解できなくなってしまうのではないか。

言い換えると、保守、という言葉が辞書的な定義で使われていないのではないか。

 

しつこいようだが、繰り返し述べると、過去を肯定することは、その過去を繰り返すことと同義ではない。

少なくとも、保守の政治家はそう考えているようには見えない。

 

先ほど挙げた理解しずらい言動が、「過去を肯定する」保守、という観点からみるとすっきりする。

靖国参拝については、私たちの祖先が亡くなったことの慰霊である。過去、つまり戦前に戦争で亡くなった人を肯定する、という立場からは参拝は当然なのだろう。

ポイントは、ではその祖先の行った行為、あるいはその結果についてどう考えているのか、であるが、恐らく、特に何も考えていない、のではないか。

 

日本は戦後、戦前を誤った時代と断じてきた。

日本という国は敗戦したのであるから、何かがおかしかったことは間違いない。

では、一体何が間違っていたのだろうか。

主たる原因を探す(軍国主義が問題だ、全体主義が問題だというように)のではなく、どこまでは間違いの主体であったのかを考える際、私たちの祖先が間違えた責任の一端を担うと考えるのか否か、責任はないと考えるのが保守なのではないか。

 

例えれば、戦争が天災であったと考えてみればいい。

戦争に赴き、命を落とした私たちの祖先は巻き込まれた人たちであって、その時代を必死に生きたのだ、と認識する。

そう考えれば英霊を弔うことは何ら不思議ではない。

 

戦後、日本は徹底的に戦前を批判してきた。

戦争を二度と起こしたくない、そのためには、戦前的なるものをあまねく否定することが一番分かりやすかった。

特に、戦前から戦後へと生き抜いた人たちにとっては、過去を失敗と見ることに抵抗がなかったのだろう。

しかし、その人たちは、自分達の祖先が失敗したとは考えておらず、日本民族を今に繋いでくれたという尊敬を持っている。

現代の私たちは、自分たちの祖先を総体としては尊敬しつつ、戦前戦後の過渡期を生きた人たちだけを否定する、という難しいことを担わされており、それが嫌だ、祖先はいっしょくたに尊敬したい、という単純化は理解できる。

 

暴論ついでに、この時期、天皇陛下の譲位がクローズアップされ、天皇や皇室に注目が集まるのは、不幸な一致だと思う。

昭和、平成の両天皇は、国民のために心を砕かれ、結果として、国民から敬愛される存在になってしまった。

日本国民の一体性を象徴する天皇が素晴らしいのに、戦前が否定されるべきというのは、分かりずらいのだ。

 

繰り返し確認したいのだが、戦前を否定しないことは、戦前に戻りたい、あるいは戦争をしたい、ということと同義ではない。

同義ではないが、そのような懸念が生じるのも、無理からぬことであるように思える。

懸念が生じるとはいえ、保守の発想は、伝統でもあり、思想として許容されないモノとも言い難い。

以上を理解した上で共存の方法を探る必要があるのだろう。

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