忍者ブログ
東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
先ほど気づいたのだが、NTTは、正式な社名が日本電信電話、その英語(Nippon Telegraph and Telephone Corporation)の略がNTT。
その子会社がNTT東日本である。
あれっ?、と思われないだろうか。
NTT東日本、を日本語にすると、日本電信電話東日本になる。
つまり、「日本」が重なっている。
ニホンなだけに二本入れました、という洒落ではないと思う。
別に、だからどうだこうだ、ということではない。
二回、日本と言ったからそれだけ愛国者・国粋主義者ということにはならない。当たり前だ。
修正すべしと言いたいわけでもないし、おかしいとも思わない。
また、私には見つけられなかったが、多くの人がこれまで指摘してきたであろう。
せっかく見つけたから言ってみただけ、というやつだ。
天皇陛下の譲位を巡る議論で自民党の石破茂先生がご見解を公表されている。
公表されたという行為が立派であると思う。
その論じ方も、「不断の努力なくして維持できるものではない」「大切なもの、貴重なもの」ではないだろうか。
さて、石破先生のご見解の中に、憲法1条では天皇の地位が「国民の総意」に基づくものとされており、その趣旨に鑑みると皇室典範の改正は全国会議員の一致した賛成でなされるよう努力すべき、という話が出てくる。
自民党内では少人数の検討会を立ち上げ譲位の問題について議論しようとしたところ、もっと広く国会議員の議論を行うべきだ、と主張されているとの報道もある。
一貫していると思うし、この問題についての陛下のご意向を一番尊重した対応だとも思う。
ただ、本件について、国民の総意(憲法上の文言の定義には踏み込まず、一般的に想像されるであろう総意)に基づいて対応しているのは、石破氏ではなく、政権側であろう。
多くの日本国民にとって、天皇陛下や天皇制は、在ることを許容し尊重するものの、それ以上には積極的に関わりたくないもの、だと思われるからだ。
当てこするつもりは全くないのだが、遠く離れた親の介護の問題に似ている。もちろん何か起こらないか心配していて同居が親のためにはベストな選択だと思うものの、現在は小康状態なんだし、妻も嫌がっているし、まあもう少し様子を見ようか。天皇制度(陛下個人ではなく)に対しても、原則に立ち返って考えるのは面倒だし、今すぐの必要性はないし、大変な事態にならない程度には様子を見たい、と思っているのではないか。
政権の対応は、譲位を実現する方向で法整備を行うものの、特別法としてできる限り影響が少なく済むようにしたい、という思惑が感じられる。
私は、それが正しいとか、そうであるべきだ、と言っているのではなく、国民の総意に沿った対応だと思っている、と言っている。
はっきり言えば、国民の総意とは無関心である。
なお付言すると、国内の問題以外は、このような国民の総意に基づいて対応するのが望ましいと私は思っている。
問題は、一定のポイント/出来事で国民の総意は無関心から関心、積極的な関与や対応に変わるべきであるが、そのポイントの切り替えが難しいことであろう(東京都知事を追い出したような出来事が、重要な問題に対して生じるのが望ましいがその保証、予感が足りないというか)。
西東京市を地盤とする衆議院議員先生は、今回の譲位を巡る議論について積極的に情報発信しているわけではない。
松本先生が政治信条とされる、「当たり前」とは、譲位については黙っていることなのであろう。
PR
仕来り、習わし、伝統、これらの反対語ってぱっと浮かびます?

古いやり方を、これが伝統だから、という理由で押し付けられるがもううんざりだ、という話はよく耳にします。
私も若いころは、前例踏襲っていうのですかね、こういうやり方に強く反発していました。
しかし、歳をとって感じるのは、このような主張をする人が一定数いるってことは、それなりの合理的な理由があるんだな、ってことです。

もちろん、中には、やり方を変更することがメンドクサイとか、やり方を変えて失敗したときに責任を問われるのはイヤだとか、そんな理由で前回と同じにしておけ、という人もいます。
これとごっちゃにされがちなのですが、新しいやり方、として提案されていることに、あまり効果を感じられない場合もあります。
ただ、このような後ろ向きと評価されかねない理由に加えて、新しいやり方として提案されていることが明らかに間違いであったり、過去に試して失敗していることの焼き直しであったりすることも、ままよくあるのです。
この場合、もう説明するのもめんどくさい、という気持ちもまあよく分かるのです。

宮内庁、元日即位案を否定:Reuters

天皇が生前に、天皇を譲位することが既定路線となりつつありますが、元日から元号を含めて変更すればいいじゃない、という意見が政府が挙がっていると報じられており、それに対して宮内庁が、嫌だよ、と返答しています。
その理由が、儀式で忙しいんだよ、無理だよ、というものです。

元日から元号を含めて変更することには、具体的なメリットがいろいろとあります。
そのメリットを重視するのであれば、宮内庁の言い分は、できない理由を探しているとんでもないものであり、できない理由よりでき為の方法を考えろ、と言われても仕方ないと思います。

一方で、天皇家には日本あるいは宮家の伝統を守るお立場もあるわけで、できるための方法を考えるより先に、今やっていること(あるいはやるべきこと)に齟齬が生じないようにしたい、という主張も十分理解できるものです。
具体的なメリットだけを重視する考え方の行きつく先にあるものは、天皇制の否定だったりするのかもしれませんし。

いずれにせよ、人によって意見が分かれるでしょうし、議論によって白黒つけられる問題でもありません。
議論することで国民的総意を形成すべきだ、という意見もありうるのでしょうが、現実的ではありません。
そのため、政治的に決着させるしかない、ということになります。

元々、象徴天皇制では、天皇が政治に介入しないことが求められます。ただ、これに加えて、政治が天皇を利用しないと言うことも重要です。
天皇を巡る諸問題に政治家が関わっている状況(現状)は、このどちらにも該当しないものの、望ましいのかと言われれば、決して望ましくはありません。この点が、天皇の捉え方・あり方について意見の異なる人同士で、数少ない合意されるポイントであると思われます。

現在、政治が天皇の譲位や元号の改定に巻き込まれている理由は、誰が天皇になるのかであったり、元号をどうするのかであったりを法律で定めていること、及び宮内庁が行政組織であることが理由です。
とすれば、天皇に関することは、憲法の規定にあるような象徴天皇制であることだけを規定しておき、他のことは天皇家あるいはその諮問機関のようなところで決めてもらうことも一案であるように思います。諮問機関の人選だけを国会で行い、その罷免については国民投票に委ねる、最高裁の判事のようなことも可能かもしれません。

というわけで、政治には幅広い議論を期待したいです。
私の上の私案は、検討するまでもなく日本史を学べと言われてしまいそうですけどね。
立場が人を作る、という言い方があります。
アイツには社長は務まらないよ、と言われていた二代目が社長になった途端、有能な社長ぶりを発揮したケースで賞賛のために使われる言葉です。
責任ある立場を任せてみると、振る舞いや思考がその立場で求められるものに変わっていく、というような意味ですね。

もう一つ、創造は模倣の先にある、という言い方もあります。
練習や稽古をさぼりがち、と言われていた二代目が襲名した途端、変わったことをやり始めたケースで批判のために使われる言葉です。
まずは既存のやり方でできるようになって、新しいことがやりたいならそれから始めるべきだ、というような意味ですね。

両方とも私が考えたわけではないですし、広く理解されている考え方かと思います。

この二つを掛け合わせると、人を成長させるには、立場を与え、前任者のやり方をまずは踏襲させてみる、のが良さそうです。
多くの職場における通常の人事異動では、新社長だの、新部長だの、新マネージャーだの、が前任者のやり方をまずは踏襲しているはずです。

この際、どこまで前任者を踏襲するのか、というのが一つ、結構大きな問題です。
業務の流れや判断基準については、まあ一度は前任者と同じようにやってみて、気になるところから順番にそして徐々に変えていくことになるでしょう
仕事とは直接関係のない、例えばランチをどうするか、なんてことも一度は前任者と同じくする、前任者が一人で食べていたのであれば一人で食べる、職場のみんなと連れ立っていたのであれば連れ立ってみる、ことがスムーズな移行に繋がるという意味でもおすすめです。
何時に帰るのか、どこでさぼって昼寝するのか、会議の際に持っていくコーヒーは紙コップなのかマイマグカップなのか、みんな前任者に従っておくべきです。
特に今まで課長だった人が部長になるとか、常務が社長になるとか、前任者のことをよく知っている場合、結構な精度で同じことができるようになるのではないでしょうか。

というように、前任者の踏襲をおこなっていくと、最後に残るのが言葉の問題だったりします。
これまで例に挙げた人たちは、指示を出すことが仕事の人たちです。
指示というのは言葉です。
そのため、前任者と同じことをする、というのは畢竟、言葉を使う、がもっとも重要だったりしがちなのです。

前任の営業部長が、「ぶっ倒れるまで客に頭を下げろ!戦線は下げるな、契約が取れるまで踏みとどまれ!」と言っていれば、おんなじことを言っておけばいいわけです。
契約のとれた部下に、「よくやった!ボーナスは期待していてくれよ!」と言っていれば、おんなじことを言っておけばいいわけです。

いいわけなんですが、これがこれで結構大変じゃないかと思ったりします。
人間、人と同じことをするのに抵抗があるんですよ。
同じ服を着ていると恥ずかしいとか思うのと同じように。

さて、レポートを書く、あるいはブログの記事を書く、と言った場合には、参照している文章があると思います。
TPPに反対と書くなら、どの時点で誰がどういう発言をしたのか、新聞記事や雑誌、ブログの文章などに当たって情報を集めますし、PPAPを賞賛するなら、同じように何時発表されたのかなどなどの情報を集めます。
レポートやブログの場合には盗作するわけにはいかないので、これを自分の頭に記憶し、構成し直し、文章にするわけです。
これ結構時間がかかりますし、面倒な作業です。

話がそれますが、適当に文章を打ち込むと間違いを探してくれるツールというのがこれから作られるのではないでしょうか。
1946年、日本はアメリカを奇襲したが、その指示を出したのは当時大統領だった安倍氏である、みたいな文章を書くと、「1946」年や「大統領」「安倍」氏に間違いです、と赤線を引いてくれるツールが。

すみません、元に戻ると、自分の言葉に直すのは面倒なわけです。
そのため、元の文章をなるべくちょこっと変えることを普通は考えます。
語尾だけ変えてみる、とか、言葉を言い換えてみるとかね。
よくやった! → よくできましたね!
ボーナスは期待していてくれよ! → 賞与は期待が持てそうですね!

周囲からの評判は通常は逆です。
前任者とまったく同じことを言うと、楽しやがって、と思われますし、自分の言葉に直すと、頑張っているように思われます。
しかし、きっとそれは間違っているのです。
同じように、まったく同じことをする方が遥かに大変なのですから。

アメリカのトランプ大統領の大統領選後、初の記者会見の記事を読みながらこんなことを思いました。
2015年末の日韓合意を巡り、日本と韓国に軋轢が生じている。
駐韓大使の帰国や日韓スワップ協議の中断など、大きな影響も生じていると報道されている。
私は、日韓合意から、今回の日本側の措置まで、あるいはもっと他の外交問題についても、安倍政権の判断は一貫しているように思う。

すんごいそもそもではあるが、日本の(あるいは安倍政権の)目指す外交とは以下のようなものであると私は理解している。
一つ目は、重要な課題に優先的に対応したい。
二つ目は、重要ではない課題解決よりも「誠実」という評判を得たい。
三つ目は、重要な課題解決は信頼関係を築くところから始める。

課題とは、日本から見た課題である。
ちょっと付け加えると、、、
一つ目、重要な課題に取り組むために、重要ではない課題は先送り、ないしは妥協での解決を目指している。
問題となっている日韓合意では、従軍慰安婦の問題を取扱っているが、重要な問題であるがために合意されたのではなく、妥協的に解決してしまいたいという思惑が透けて見える。
恐らくは北方四島の返還なども同様だと思う。

二つ目、交渉において何かを勝ち取ることよりも、誠実だと評価されることを望んでいる。
従軍慰安婦の問題については、日本からは日韓合意が履行されるかを確認する前に10億円が拠出されている。
仮に従軍慰安婦問題が解決しなかったとしても、日本としてはちゃんと合意内容を履行した、という誠実さを金で買ったとも言える。
北方四島の経済支援についても同様で、返還されるかどうかよりも日本としては資金を出すこと、その結果として何も得るものがなくても誠実な対応をしたとの評価を得ることが重要、との認識なのであろう。

なぜ誠実だと評価されたいのか、の回答が三つ目で、重要な課題への対処を交渉で勝ち取るためにはそれだけのチカラが必要であるところ、日本にはその力がなく、今後はさらになくなっていくという認識だからであろう。
なお、強硬措置とも評価される駐韓大使の帰国などは、対等であることを示すことによる、信頼関係を築くための方法であると思う。

重要な課題に安全保障が含まれているのは間違いないが、逆にそれ以外の事柄(経済協力、あるいは日本企業の売り込み)が含まれているのかはよく分からない。

以上をまとめると、従軍慰安婦の問題については、重要課題ではないため、今後は対応したくない。
そのためには、力づくで、あるいはバーターで黙らせると言う方法もあるが、それはいつまでも続かない。何故なら日本の国力は衰退する一方であるし、もっと力のある主体から圧力がかかることもありうるから。
従軍慰安婦について、日本は謝罪するとともに金銭を拠出するので後の対応は韓国にお任せしたい。
合意を反故にされると信頼関係が築けないから大使を帰国させた。

日本の外交についての批判は、何を重要だと判断するか、の違いに起因していることが大きい。
重要ではないことを含めて、全ての課題を解決せよ、と批判するのは易しいが、現実的なのだろうか。
また、批判ではなく「対案」として言及されている内容は、重要性に優劣をつけていないからこそ、の対案が多いように思われる。

なお、日本の外交は、政権中枢が全てを担っているわけではなく、各主体が上記に沿って行動していないこともよく起こる。
特定の大臣の靖国参拝が、などという問題は、重要性に応じて対応している、ということかと思われる。
ここ最近、他人の判断を良い/悪いと評価することは相当難しいことだ、という当た
り前のことを実感する。

その一例が以下。
初詣「ベビーカー自粛」要請で大騒ぎ 「差別」批判へ寺側の意外な言い分(JCast
ニュース)



あるお寺でベビーカーを自粛してください、と看板を立てたところ、そんなことを言
う人がいるから子育てが大変なんだと批判されたお話。
喧々諤々の議論があり、お寺側は昨年までベビーカーで参拝にきてほしい、とむしろ
推奨すらしていたものの問題があれこれ起こり(ベビーカーにつまずいた老人がケガ
をしたり)、どうしたらいいのか頭を抱えている様子が目に浮かぶ。
もちろん、JCastニュースの記事が正しい、という保証はない(嘘だと言いたいわけ
ではない)。

ベビーカーで初詣に行ったっていいじゃんという人も、非常識だしやめておこうよと
いう人も、いるのだろうが、どこに線を引くのかというバランスの問題でしかないと
私は思う。
電車にベビーカーで乗ってもいいのか、通路の狭い居酒屋はどうなのか、問題になる
場面は多数し、それぞれに言い悪いの線があるのだろう。

その線をどこに引くのか、を議論するのは水掛け論であり、特定の属性の人がどうし
たらいいのか、の方法を考えることの方がより重要なのではないだろうか。
初詣の人ごみに子供を連れて行くなんてありえない、と批判するのではなく、初詣に
小さな子供を含めた家族全員で行きたい人はどうしたらいいのか?を議論すべきだ。
何故なら、行きたい人の背景なんていくらで作ることができるのだから。
余命半年の母親が子供と初詣に行きたい、でも体力が落ちていてベビーカーがないと
無理、頼れる人もいない、という状況で、人ごみは避ければいいんじゃないですか?
と私には言えないのだ。

もう一例はこちら。
「子供を大学に行かせる金もないなら三人も産むなよ」という話を女子高生が熱心に
していた (ピピピピピの爽やかな日記帳)



兄弟姉妹がいなければ教育費(や生活費も)全額を自分が受け取れるはずだったの
に、親は何故子供をたくさん作ったのか、貧乏なのに、という話。
私にはそもそも何が後ろめたいのか感情論としてよく理解できず、まあそういう意見
もあるよなー、と思う。一生遊んで暮らせるほどの財産がないなら私なんで産んでく
れなくてよかったのに、という議論と何が違うのだろうか。
もちろん家族構成には経済面以外の事柄も多く関わってくるし、親としてそんなこと
を言われても困るけど。

ただ、それって当たり前だがただの仮説であって、兄弟姉妹が少なくなると自分に多
く回ってくるかどうかは分からない。
それよりも、今すぐ両親が保険金のおりる事故でなくなってくれた方が経済的に得で
あるのかを議論する方が、有意義なように思える。
あるいは、子供を大学に通わせてなお豪遊するお金があるんなら子供を百人単位で産
んでよ、の方が日本経済のためになるかもしれない。
少子高齢化の対策として、出生率を上げようという話をしている中で、子供を産まな
い/産めない女性を増やそうという議論は盛んになされているが、もっと多産してく
れる金持ちを探そうという議論がなされないのは不思議だなと私は思っている。
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
mimomemo
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター

Copyright © [ はちこくやまから見える世界 ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]