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コミュニケーションにおいては、誤解させる意図がなくても、正しく伝わらないことがある。
モノゴトの程度を示す言葉を使うことによって、この伝わらなさを増幅することが可能である。
私と妻の間には、多くの壁や川・谷が横たわっているが(たまに自分自身も横たわりたくなりながら会話に耐えているが)、その中でも、この程度を示す言葉のもたらす弊害は大きい。
雨が家の中に振り込んで、床がべちゃべちゃだ、と聞いた場合、想定する事象が全く異なる。
私は、水たまりでもできているのではないかと思う程度でなければ、べちゃべちゃとは表現しない。タオルで一拭きしてふき取れるような程度は、濡れている、であってべちゃべちゃとは言わない。
一方で、妻は、ガラスコップから数滴の水が床に落ちている状態を床がべちゃべちゃであると表現する。
朝、電動シェーバーでひげをそって、洗面所にそり落とされたひげの残骸が残っていることがある。
私が掃除を怠ったと理解してもらえば大きな間違いはないであろう。
しかし、ひげって、仙人みたいなひげではない。毎日剃るのであるから、ゴマ粒、いや黒い塩のようなものだ。
それを見て妻が言う。洗面所をそんな汚しておいて、出かけるとは信じられない。
いや、出かけたというわけではなく出社したのだし、汚れというほどのことでもないと私は思い、小声で反論する。
もう一つだけ、別の例を挙げてみる。
季節外れではあるものの、公園の売店でソフトクリームを買う。
照りつける日差しの下、ヒンヤリととする甘いソフトクリームは、心地よい風と相まって、生きている喜びを存分に味あわせてくれる。
この幸せな時間を少しでも引き延ばそうと、のんびり舐めていると、コーンから滴り落ちる、溶けたソフトクリーム。
それは非情にも、スニーカーの上に舞い降りる。お気に入りの何年も履いているスニーカー。
私は、溶けて落ちたね、と言う。
妻は、靴が汚れたね、もともと汚かったし、捨てる?と聞いてくる。
この認識の違いを埋めることはことのほか困難だ。
私も何年にも渡って、妻の言葉が大袈裟であることを冷静に、時にはコミカルに、時には熱心に、指摘し続けてきたが、一向に改善の兆しは見えない。
妻が私よりもはるかに繊細で、気にしいな性格であることが理由なのだろうか、と考えたこともある。
大ざっぱに、人間関係に関してはその傾向がある。私が他人からのリアクションに鈍感であり、妻が敏感であるということだ。
スーパーのレジで小銭を探してもたついている間、店員が人差し指で台を叩いていたことは、ドラムの練習でもしていたと思えばいいではないか、と何度言っても、あなたは鈍感だけど、私は繊細なの、と主張されていることから考えても、これには一理あるかもしれない。
しかし、それは、妻が改善を要しないという理由にはなっていない。
なぜなら、その繊細さは妻に何らか望ましいものではないからだ。
漁港の旅館で活きのいい刺身を味わっているとき、妻が言うのは、美味しいね、である。
酒を飲めば、アルコール臭い、である。
感受性の鋭さを売りにする割には、それは妻にとっても私にとっても、何らプラスをもたらしていないことは明白である。
そんなこともあってつらつら考えていたら、最近、妻の大げさな表現は、不満の表明であることに気付いた。
気にいらないことは大げさに表現するのである。
それが表現だけの問題であるのか、実際に体感しているままなのかは不明である。
でも、だったら余計に、不満に思うことには鈍感であるべきではないだろうか。
しかし、その口を永遠にふさいでおくことは、相当な困難が伴うミッションであると知っておくべきなのではないだろうか。
方法はいくつかある。
(1)殺してしまう、あるいは物理的に口を潰す、両手を骨折させる、等
(2)脅しつけて辞めさせる
(3)教育する
いくつかと言ってみたが、私には、全てがこの類型のどれかに当てはまるような気がする。ちなみに発言っていうのは、文章なんかも含めて考えている。
他人に自分の望ましい発言をしてもらうためには、原稿を渡すか、偶然に期待するかの2択であり、多くの人は偶然を選んでいる。
一方、先程挙げた口をふさぐ為の方法としては、多く、(3)教育、が利用されているのである。
ここで教育というのも、なかなか語義の広い言葉であるが、一言で言えば他人の態度や嗜好を返させるもの、ということができる。
そう、論争というのは一般にここに、つまりは教育に、分類されると私は考える。
ところで、教育以外の手段により発言を停止させることでは、単なる停止しか起こらない。テープレコーダーで言えば(そろそろこんな例えが通じなくなってきているのではないか、と思われる)停止ボタンを押す、ことに他ならず、というか場合によっては停止ではなく一時停止なのかもしれないが、いずれにせよ、その発言を止めるだけで、代わりに望ましい発言がなされる、というわけではない。
教育の場合は目的がこのような「停止」に留まらない。積極的に次のテープを流すこと、つまりは自分の意に沿った発言を行うことまで求めるのである。
しかし、教育の成功する確率は著しく低い。それでも多くの人がこの手段を多用することが不思議でならない。
成功しない理由はいくつかある。
まず、教える方に教えるためのスキルが欠けている。これはもちろん、教わる方は教わるスキルが欠けていることとセットではない。何故なら教わるスキルは義務教育から高校・場合によってはその先まで、存分に鍛え上げられているはずだからである。
しかし、教わる方にも問題の半分がのしかかっており、それは教育される側に、されるだけの心構えがないことによる。
何故、こんなことを言う人がいるのだろう、の答えは、恐らくない。
どんな意見であろうと、言う人は見つかるものなのだ。
でも、他人のいやな意見を聞き流す方法はある。それは、その言葉が目立たないほど、多くの言葉で多い隠してしまうことに他ならない。
元々、デマを拡散する人や、それに便乗する人、デマだと分かっても謝罪しない人、を想定して書き続けていたのだが、よく考えてみると、ヘイトスピーチも同じような光景だ。
ヘイトスピーチで気持ちがよくなっているのを見るのは気持ちが悪い。しかし、同じようにヘイトスピーチを避難して気持ちよくなっているのを見るのも気持ちが悪い。
他人を、気持ち良さそうにしていると、ほんわかした気分にさせられるのはAV女優くらいなものだ、ってことは覚えておいて損はない。
「西武HD、悲願の再上場に暗雲…サーベラス「路線廃止」提案も」
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130311/biz13031122400023-n1.htm
そのような立場からすれば、上記は由々しき事態。
西武HD(西武鉄道とかプリンスホテルとか、百貨店は含まないです)の再上場にサーベラスなる海外のファンドがちょっかいを出しているというのです。
具体的には路線の廃止を提案しているとか。
西東京市とは関係ないのですが、国分寺線とか廃止されたらチョーコマルんですけど、と思ったのですが、それは杞憂。
ただ、公共交通について、儲かる儲からないで路線廃止なんて言ってしまえる外資と、公共の使命からそれに抵抗する西武鉄道・みずほコーポレート銀行の国内コンビ。
とまあ、勧善懲悪っぽいけど、西武HD側からの情報だけで書かれた記事っぽいなあと思います。
秩父線はともかく、多摩川線は、本業との相乗効果があまりに弱い、と私でも思います。
それが単体で黒字であればともかく、不採算なのだとしたら、手を引くべく検討するのがあるべきだと思うのです。
西武HDが多摩川線から手を引くってことは、多摩川線が走らなくなるということではありません。
多摩川線をどこかの事業者に売却するってことです、普通に考えれば。
どうして、路線が繋がっていない西武鉄道が手がける必要があるんだ?
京王の方が相乗効果が出せて保有する意味があるんじゃないか?
ということをサーベラスさんは言っているのではないでしょうか。
そうだとすると、西武の意向についてもっと突っ込んでサンケイさんには調べていただきたいものです。
なんでそれでも、不採算でも続けるの?って。
と何も考えずに思っていたのだが、ハンディーカムはSONYの商品名なんすね。
人生でビデオカメラを購入するのは初めてのことだ。だから少し舞い上がっているのかもしれない。
実際に触れている時間なんて高々数分程度ではあるんですが、これ、楽しいです。
もう、むやみに楽しくてびっくりして手放してみたって感じです。
やばいといえば、やばい。
ビビっときたといえば、びびっときた。
はまりそうといえば、そんな時間があれば一日中でも遊んでいられそう。
こんな楽しそうな気持ちになったのって、雪山でスノーボードを始めたとき、以来かもしれないなあ。
人類の進化の最先端ってやっぱりすごいよ、びっくりするよ!
で、逆に今使っているものが劣化する体験もここ数日でしている。
諸事情あって、妻の実家に泊めていただいていたのだが、細かい設備が一つ一つ、少しずつ、我が家にあるものより古くて劣っている。
これは全てが悪いことではなくて、シンプルな作りになっている分だけ調節によってびっくりすることが達成できたり、掃除が簡単だったりするので。
逆に誰かが工夫したことで使い勝手が確実に向上していることもあってびっくりする。そんなすごい話をしているのではなくて、洗面所の水の出る蛇口の形状、とかそんな話なんですが。
先日、会社でGoogleAppsを導入するから、と言ってその説明会を聞いていたときにもそんなことを思った。
現状の環境(窓に囲まれた生活)に比べて、すごくシンプルに、なる。
それって不便なことだけではなくて、余計なことをしなくなるってことにも通じるかもしれないってことなんだよね。
複雑なものとシンプルなものを選ぶ際には、自分だけならシンプルなものを、他人と共有するのであれば複雑なものを選びたい、と私は思う。
自分自身のために複雑なものを好む人の気持ちは私にはよく分からない、好き好きといか言いようがなく、しいたけが好きだったり、生牡蠣が好きだったり、私が食べられないものを食べる人と同じ、理解できないけど、どうでもいい。
自分のためにシンプルなものを選ぶ人が他人のためにもシンプルなものを選ぶ、ということは、正直、エゴを通しすぎなんじゃないかと思う。
シンプルにすることはいつでもできる、のであって逆は難しい。
今、ないような機能を追加することは難しいことであって、いつでも誰でもどこでもできるわけではないだろう。
逆にシンプルにする分には機能を使わなければいいだけだ。
もちろん、組み直す、という作業は必要になるけれど。
この組み直しの作業を嫌がる人が他人にシンプルなものを勧めやすい、ような気がしているのだが、さて。