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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
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突然ではあるが、新青梅街道沿いは、北原西交差点にある「壱銀」さんという和食料理屋をご紹介させていただきたい。
西東京市にある美味しいお店、という紹介の仕方よりも、西東京市で営業してくれていて感謝したいお店、だと思う。

何事もそうであるのだが、考えたり調べたりするよりも、まずはやってみることで体感できることはたくさんある。このお店もしかりである。
もちろん、どう書いたら伝わるのかなあ、と悩んでいるための逃げ口上であることも否定しないが。

今年の春に初めて伺ったのだが、場所的にはスーツ屋があり、ステーキ屋があり、私にとっては気張って、無駄に踏ん張ることの多い場所だった。
こちらのお店には気張る必要も、踏ん張る必要もない。

こちらは、優しそうな料理人と、朗らかで美しい女将さんのいるお店である。
綺麗に盛り付けられた、若々しい味付けの料理を食べられるお店である。
居心地がよく、何度も立ち寄りたくなるお店である。

私は個室を利用させていただいた。子供がいる場合、床に子供を寝かせられる個室は必須である。
また、個室であれば多少の子供の奇声も許容していただけるかもしれないという期待がある(事前にお店に話しておくのがより望ましいマナーのような気がするが)。

決して広い店ではなく(って全体を把握したとは言い難いのだが)、でもその空間が心地いい。
また、内装も店の雰囲気も、老若男女を問わない。
お酒を飲むのもよし(今回は車だったので酒を飲めなかったのが悔しい)、親しい友人や家族とじっくり語り合うのもいいと思う。
こちらの個室は、包み込むような大きさのため、走り回る児童には辛いかもしれない(私が児童の頃には和食自体が辛かったが)。
ついでに、恐らく数人、程度の集まりが一番いいのではと思う。
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本と、ブログやその他インターネットで閲覧できる文章との違いって何だろう、とつらつらと考えていた。
電子書籍の端末発売にあわせて盛り上がった(かのように見えた)議論であるが、議論の俎上に載せられた、紙の発光とモニター画面の発光が読み手に別の認識を惹起させるのではないか、つまり、紙の本を読むのと、電子モニタ上で読むのと、読み終わった後に何を考えるか、どんな感想を持つか、どれくらい記憶されるか、が異なるのではないかという点に、個人的には関心がない(しかも比較した結果、紙が優れているんだよ、という論調には何も言う気がしない)。
だって、考えてみてほしいのだが、今からウン十年前、孫の顔でも、恋人の顔でもいいんだけど、を見るのに、写真や画像の荒いビデオしかなかったのに、今じゃあ携帯で写メ撮って送って、保存して、ニヤニヤしているじゃないですか、していませんか、だったらしてみませんか?
これが紙に印刷された写真じゃないと、とか、紙の手触りが、なんて言っている人、ほとんどみたことない(全くない、わけではないんだけど)。もちろん、名画を写真じゃなくて実物で見ると違うとか、芸能人を普段テレビで見ていても実際に会ってみたらオーラが違ったとか、そういうことはあるものの、って話がだいぶずれてきた。

翻って、では紙の本でも、ネットの情報でも全く同じなのか、と言われれば、それはやっぱり違うと思う。その違いは何かと言えば、書き手と自分との間に、誰かが一度読んで、書き手が読み手の意見を聞いて再考しているかどうか、なのではないか。
ここで申し上げたいのは、文章の質が上がるとか、そういうことではない。
他人が読んで、ある程度理解できるものであるかどうか、だと思う。
体験談を細切れにして投稿する掲示板をご覧になったことがあればより理解されやすいと思うのだが、あの場所では文章の良し悪しよりもむしろ、純粋に体験内容の面白さを判断できているように思える。
その理由は、書いてある内容が「他人」から見て理解できない場合には、質問が挟まり、書き手がそれに返答して書き足すことで不足情報が補足されるからである。
ネット上に氾濫する文章が全て他人が理解できないと困る、なんてことを言うつもりは全くないのだが、読みたい何かが、自分の理解できる範囲にあるのかどうかのフィルタリングはやっぱりほしいなあと思う。
まあ、読めない(理解できない)ものは読者として自分が選考に漏れていると考えればいいのだが。

話がまたぶれるが、ネットで読める文章が増えてきて、恐らくは読みきれないほど大量の文章がある中で、文章を読む機会というは、個人的には着実に増えてきている、わけではない。私自身はもともと活字中毒気味(ホンモノの中毒者には足元にも及ばない)くらいにしか文章を読まないのだが、正直本を読んでいた時間がネットを見る時間に変わっているだけで、あまり変化がない。
では、今の子供たちなり、日本人が平均で文字を追いかける時間は増えているのだろうか。ちゃんと統計を探したわけではない(適当にも探していない)だが、恐らく増えているような気がする。何故なら、ネットで流行たるものの大半がまだ文章であり(画像や音楽ではなく)それについて行きたい人も増えているように思うから。
仮にネットで文章を読む時間が増えているとして、それは物事の理解力を向上させることに役立っているのだろうか。
これまた個人的にはそうは思えないのだが、こちらは何ら確証がない。

以上の文章は、私自身、知り合いではない他人に理解してもらえるような文章が書きたいと思っているのですが、まだまだです、というざんげです。
繰り返しになりますが、個人の感想や感情を背景なく書かれているものが良くない、ということを全く意図していません。私向きじゃなくて少し悲しくなる(もっと理解しあえるかもしれないのに)という程度です。

田無駅そばにあるチャニーは語られるべきよいお店だと思う。

何よりもまず、交通の便がよい。好立地(田無駅から歩けない距離ではなく、青梅街道沿い)にありながら、車では行きずらいそのロケーションが良い。歩いていくことで特別感を感じられ、歩いていくことで身近感を胸に抱け、歩いていくことで期待感が高まり、何より歩いていくことでお腹が空く。

次に外観がいい。一度知ってしまうと目に付く外観、目立つでもなく目立たぬでもなく、そこに確固として存在し、間違いなくあると実感される外観。扉の前に立つだけで、これから素晴らしい時間が始まると期待させられる外観。

加えて店内のインテリアがいい。一昔前の喫茶店ってこんな感じだったのだろうかと思わせるインテリア。カウンターの内側にはインテリアの一部としてみても相応しいマスターとおかみさん(店長と社長とか、なにか別の呼び名があるのかもしれないが)。ゆったりとした時間の流れを感じさせる、ゆったりと時間が流れることってこんなに落ち着くものなんだと感じさせるインテリア。

さらに店内の雰囲気がいい。よく地元の人を相手にしているお店があるが、ここもそんな感じ。私は地元の人でも常連さんでもないが、いつもこの雰囲気になじませてくれるように接してくださる店内の皆様が(もちろんお客さんはその都度違うんですが)いい。一見さんでも何の躊躇も必要ない。わずらわしくもなく、疎外感を味わうこともない、絶妙の距離感がここには存在する。

最後に味がいい。看板メニュー?の粥は美味しいし、バンメンなる都内に食べられるのはここだけ!とテレビで放送されていたものが、そのお店以外で食べられることもうれしい。もちろん、餃子もラーメンは正直普通だと思うけど、普通に美味しい。お値段も郊外の個人経営中華料理屋さんに比べて若干安いような気がする。お財布とお腹への満足感がすごい。

私はこのお店が大好きだし、ずっと続けていってほしいと思っている。でも、だからと言って通いつめる時間もお金も根気もない。正直、目くるめく刺激とか、度肝を抜かれる体験とかにも無縁である。平日昼間は勤めに出て市内におらず、週末もそれほど近くに住んでいるわけでもない私が通いつめることなどできやしない。そんな私に出来るとても少ない事柄の一つが、このお店を誰も見ていないいつか誰かが見てくれるかもしれないこのブログで褒めること。
それは、彼女のいる高校の先輩が陸上部で最後の大会に挑むのを片思いしながら眺めているようなものだと思う。
はかないとも思うし、切ないとも思うし、歯がゆいとも思う。
それでもいいのだ、それしかできないのだから。

私はこのお店が好きなんだし。

 

久々に、気持ちいいくらい寝坊して会社に遅刻した。もちろん、気持ちいいのは寝ている間と、開き直った直後の少しの間、しかも自分だけであって、対応の遅れた顧客(今回はたまたまいなかったけど)、迷惑を掛けた同僚、うんざりしている上司、誰にとっても不快なだけであったことは、深い反省の最中に実感している。
さはさりとて、寝過ごしてしまった時にはどうしようもない。前日に早く寝るとか、睡眠の質を上げるとか、今の段階で考えてみても今の状況は変わらないし、既に遅れてしまった分を取り戻すために今日一日を過ごすとなると大変にハードな時間が想像され、夜までその反省を持続させる元気は恐らくないことが容易に想定される。この明晰さが昨晩の睡眠時間を削ってまでくだらないことに時間を費やしていた、あの瞬間に発揮されないことも悔やんでも後の祭りである。実際には前夜が、私の脳内でお祭り状態だったのだが。

今日の実例を通じて学んだ、朝から遅刻した日の過ごし方についての3つのアドバイスを私からさせていただきたい。

1.焦らない
一刻も早く職場に着かなくては、と焦っていいことなど一つもない。今日、もしかしたらあなたは病気で一日動けなかったのかもしれず、それで会社が倒産したり、解雇になったりはしないだろう。そう考えると、つまり一日自分がいなくたって会社は、地球と一緒に回り続けるのだと考えると、数時間遅れることは実はなんでもないことだと思えるはずだ。
実際、上司にしたって、あなたがいないことで、とんでもない損害が起こるかもしれないと思って怒るわけではなく、会社の定めた出社時間というルールに対する反抗心が社内で興ることを心配しているのだろうし、もしかしたら条件反射あるいはストレス発散や自己顕示欲充足のための良い機会と捉えている可能性もある。
つまり一分一秒を争ってみてもあまりよいことはない。

逆に、焦った結果、走って会社を目指したりなんてすると体力は削られるわ、交差点での人並みに精神は削られるわ、髪が乱れ、荒い息をして、疲れた顔つきになったりするわけで、悪いことはたくさんある。
悪いことの効果は、会社に到着してからも続いていく、ことに注目していただきたい。
これだけ、明確に焦ることのデメリットがはっきりしているのに、それでも焦って会社に来る人をあなたはどう思うだろうか?また、あなたはそんなデメリットが分かっていない人と思われたいのだろうか?

ただ一点、焦るべきことがあるとすれば、職場への遅刻の連絡を焦ってでもすべきである。この連絡が遅れたために、方々へアイツが伺っていませんか?という問い合わせをされ、晒し者にされた事例を私は知っている。いや、何かあったんじゃないか、と心配された上での行動だということは十分過ぎるほど理解しているのだが、聞き方ってあるじゃないですか、始業時間過ぎても来ないし連絡もないから、心配になって、って取引先とか関係部署とかない正直に言わなくてもいいじゃないですか、という体験談を語らなくて済むためにも(そして当然に後日、関係者の方にその節は変な問い合わせが行ってしまって、と謝らなくても済むためにも)職場への連絡はとにかく急ぐべきである。
なお、その際に正直に理由を述べるべきであるか、は職場環境によって答えの異なる難解ではあるが重要な問題なのだが、別の機会がもしあればお伝えすることに致したい。

2.活かす
どうせ、就業時間に間に合わない、ということに気づいたあなたが、私のアドバイス通り、焦るという罠を見事にかいくぐった、としよう。
次にあなたがすべきことは、ソファーに座ってゆっくり新聞を読んだり、駅前のコーヒーショップでお気に入りの店員さんにウィンクしたりすることではない。
せっかくいつもと違う出勤時間、求めても得られない(たまに求められていないのに、強引に取得する人もいるのだが)このひと時を、十分に活かしていただきたいと思う。

普通に会社に向かったとしても、いつもとは違う顔ぶれの電車に、いつもとは違う込み具合の電車に、いつもとは違った気持ちになれるのだと思う。それも、自分の視点を上にずらしてこそ、靴先や電話や紙なんて見ている場合ではない、そうだ、若者よ上を向いて歩こう!
この記事が別に若者を対象にしているわけでもないので、存分の話がぶれてしまって申し訳ない。

会社についた後の憂鬱を忘れるためにも周囲を見渡すことはオススメできる方法である。運がよければ、同じように遅刻して、しかも焦っている人を見つけることが出来るかもしれない。見つけたらということは同じ車両に同乗しているのでしょうから近づかず避けた方が無難である(焦っていると苛々していることが多いから)。見つからなければ、目に入った人を、勝手に、この人今日は遅刻なんだなー、と決め付ければいい。何も孤独を心の糧とすることを朝の電車の中で実践する必要はない。

その他、いつも立ち寄るコンビニが普段より空いていることを発見できるかもしれないし、会社の写真を撮ることだってできるし(出勤時間だと誰かに見られる可能性が高くて恥ずかしくないですか?写真をどうしたものか、とは思いますが)、私はこんなちっちゃなことしか思いつかないけど、いろいろとできそうな気がする、そうだその気になれば何だってできるんだ、世界を変えることだって!という気分で何かをしでかしていただきたい。
今日のあなたは特別なんだから。

3.意識する(忘れない)
人間は、自意識過剰な生き物であるとはよく言われることであるが、他人が見ている部分と、自分が意識している部分は相当にずれている。
これは、自分で意識できる部分というのが意外と少なく、世の中には多くの視点がある、という意味ではないかと思われる。

始業時間に遅れて会社に着き、上司の叱責を深刻な顔でやり過ごし、同僚に申し訳なさそうな顔を見せ、部下には頭を下げる、そうして、朝の遅れを取り戻すべくメールを見て電話をかけ、一時間もしたところで、遅刻したことをすっかり忘れていないだろうか?
大変に残念なお知らせではあるのだが、あなたの頭の中から消し去られた遅刻した事実は、他人の頭の中からは消えていない。良くて、皮の中に納まっただけである。興奮したとき、じゃなかった、あなたに悪い感情を抱いたとき、その事実は頭をもたげてくる。そして、あなたのしたことが、相手のあなたに対する感情を、特に悪い場合には、倍がけで増幅させることになる。

更に、あなたが自分が遅刻したことを反省していない、と判断された際には、まず間違いなく相手を怒らせる。
ここで問題にしているのは、あなたは本当は反省しているのに、相手に反省していないと判断されることである。
具体的には、他人の批判をする、間違いを指摘する、話にきちんとあいづちを打たない、ということが、仮に建設的な批判であっても、正されるべき/正さないとより問題がある間違いであっても、聞く必要のない子供のお遊戯会で自分の子供がいかにかわいかったか、であっても、あなたは遅刻を反省していないと判断される。

理不尽なことだ、というのは誰よりも言い出した私が分かっているつもりだ、でも事実なんだから仕方がない。他人の気持ちや判断は、どうにもできないものなので、変えられるのは自分のことだけ。

ではどうしたらいいのだろうか?
一つの、恐らくは唯一の対応策は、何度もしつこいくらい、自分が遅刻した事実を繰り返し相手に伝えることである。
「遅刻した私が言うのもなんですが、この点は間違っていますよね、私が遅刻しなければこんなことにはならなかったのに、大変申し訳ありません。」
もちろん、このことがあなたの精神をおおいに傷つけるであろうことは想像に難くない。忘れたい記憶について、自ら口にすることなんて誰にとっても嫌なことリストの上位に来るものだ。
でも、しなければならない。他ならないあなたのために。

また、この自分のミスを繰り返すことは、他人からあなたへの信頼を向上させることの一助にもなる点を理解していただきたい。
自らのミスを言い募ることで、隠し事をしない信頼できる人間だという評判を得ることもできるし、場合によっては笑いも取れて明るい人間だと思ってもらえるかもしれない。

この文章を読んであなたが遅刻も捨てたものじゃないなあと思っていただけると幸いである。ただ、じゃあいっちょう、明日は遅刻でもしてみっかぁ、と思われることはおすすめできない。
明日は土曜日なんだから。

出掛けに思っていた以上に肌寒く、羽織モノを選んでいるうちに出発が遅くなり、雨のせいかそれとも三連休のせいか、苦労してとおり抜けた抜け道で回避したはずの有名な渋滞のメッカ以外の場所で渋滞にはまる。カーナビが目標時間のぎりぎり前後の時間に到着することを告げ続ける。前に後ろに、遅刻をあきらめるかがんばるか、合わせて私の心も揺れ動く。
 
祖母が99回目の誕生日を迎え、普段は集まることもない親戚が一堂に会した。
私にとっては妻の祖母のこととて、家族が大人数で集まることは、特に話題のない時間を過ごすことになることが目に見えていたとしても、無条件に喜ばしい。
それにしても、祖母から、その子供達が二人、片方は離婚し、片方は夫婦そろっての参加。二人の子供達はそれぞれ子をなし、それぞれ結婚している。うち二組は、それぞれ二人の子供をもうけて、計14人。
そもそもおばあちゃん、と呼ばれているものの、その言葉の本来の意味であるところの祖母、である人は私を含めて半分以下の6名、という事実に思い至る。何気なく、子供におばあちゃんってさ、と話しかけようものなら、おばあちゃんって誰のこと?と至極もっともな突っ込みをくらう。
参集した顔ぶれを見ても、職業、住まい、嗜好から、何一つ一致しないという点には苦笑せざるを得ない。といっても、縦横、どんな分類をとっても血の繋がっていない私が、誰より分類のはずれに位置するのではあるが。
 
祖母の好み、と聞いている和食の会席を皆で食する。
耳の遠い祖母は、他人の話を聞いているのかいないのか、一心不乱といも形容すべき状態で食べ続ける。長生き、健康の秘訣は、という疑問は多けれど、何よりもまずは食べること、なんだなあ、と思う。
順番に祖母に話掛けると、満面の笑顔で答えてくれる。息が抜け、声とともに空気の抜ける音が痛々しい。
興が乗ってくれば話続ける、他人からの指摘(危ないからここを持ってください)には不服を示す、頑固な老人そのものではあるが、自分の意思を表示できることも生きている証の一つなのだろうと思えばいとおしい。
 
例えば、自分の見た目が、歳相当よりも若く見える、ことにこちらの想像を絶するようなこだわりがある。
私には正直99歳と、90歳の人間の違いが分からないし、違うことに何か意味があるかすら分からない。それでも当人にとっては、自分の年齢が(赤の)他人に知られることへの譲れない羞恥があり、実年齢より若く見えることへの強烈な渇望がある。
 
正直自分が輪の中に、しっかり居られたのかどうか分からなかったものの、こんな集まりに参加できて良かった。渋滞にはまったことすら、祖母が自分の家族にこうして囲まれるまでの日々を思えば、ささやかながら追体験ができたのかもしれず、祖母が、私のようなものを含めて集まることを喜んでくれてよかった。参加している全ての人が、自分にもいつかこんな自分のために家族が集まり、囲まれる日が来るかもしれないという希望を持てて本当に良かった。
 
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