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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

恋愛とは、他人の一断面についての数少ない情報を元にした思い込みである、という意見があります(Welq風)。

恋愛に限らず、物事の評価は概ねなんであれ、思い込み、と言えないこともない。

 

そして、大概の評価は、思い込みであっても、つまり後から間違っていたことが分かっても、問題ない。

いや、私が問題ないと思っているだけで、そこが大問題だと騒ぐ人が一定数いることは分かっている。

一定数が多数派であることも。

でも、評価なんて間違うものなのだ、あてにならないモノなのだ、と言うことは覚えておいて損はない。

 

特に男性に顕著であるが、一定の属性の他人(女性)を、その属性だけで「好ましい」と判断することが少なくない。

例えば、女子高生であるとか、OLであるとか、主婦(人妻)であるとか、属性としては分かりやすいものもある。

あるいは、眼鏡をかけているであるとか、黒髪ロングであるとか、フリルのついたワンピースであるとか、見た目を属性とするものもある。

はてまた、考えるときに頬に手を当てるとか、失敗したときに後頭部を左手で触るとか、ビールのジョッキを持った時に人差し指が立っているとか、行動を属性とするものもある。

かつて、同僚から、ビルの5階にあるオフィスまで階段を歩いて登る女性を見ると好ましいと思う、という趣旨の話をされたことがある。

同意はできないが、評価は人それぞれであり、当然のことながら、目くじらを立てるようなことではない。

ただ、私はその同僚が特殊な評価軸を持って生きていることを忘れないが

 

ふと思ったのだが、女性が一定の属性で他人を評価する際は、大抵、悪い評価であるような気がする。

オタクだからキモイとか、デブだからキモイとか、デブオタだからキモキモイとか。

同性に対しても、親が金持ちであるから高飛車であるとか、美人だから高飛車であるとか、東大卒だから高飛車であるとか。

 

ある属性を元に評価を下すことの是非は難しい。

多くの要素を評価の際に考慮することが正しい判断に、つまりより良い結果を盛ら足す判断に結び付く、と漠然と思われているような気がするが、果たしてそれは正しいのであろうか。

ネガティブチェック、つまり、条件に当てはまらないものを弾くという意味では正しいと思う。

しかし、それ以上、つまり失敗の確率を減らすだけではなく、成功をより大きな成功に導くことに貢献するのかは疑わしい。

 

私は属性による判断をしない方であると思っていた。

頭が切れ、スタイル抜群で優しい美人と言われても、私に興味を持たなさそうな属性だな、と思うくらいしか感想はない。

だが、朝の満員電車で、自分が好ましいと思う属性に、唐突に出会ったのだ。

 

その属性とは、

聖書を読む人、

である。

 

これまでも聖書を読む人を見たことがないわけではない。

その大半は大学の授業か、教会の中である。

満員電車で人に囲まれ押されよろめきながら聖書を読む人に出会ったのは初めてである。

 

私がこれまで出会った、聖書を読む人は、暗記した文言を口にする人を除き、紙に書かれたものを読んでいた。

ところが、その人は、スマホで聖書を読む人、だった。

私の知る、聖書を読む人は、朝起きて顔を洗ったような、すっきりとした顔の人である。

ところが、その人は、身体の具合が悪いのか、精神的に虫の居所が悪いのか、他者を拒絶するオーラに包まれていた。

私の思う、聖書を読む人は、清潔感のある身形の人である。

ところが、その人は、派手なメイクと服装で徹夜の仕事の帰り途中、酒の匂いをさせながら聖書を読んでいた。

 

普段の私が、歩いているその人を見たら、ノリが良く、チョーウザイんですけどが口癖で、金目の物には目がなく、道端の植木に食べたパンの袋を捨てるような人だと思ったかもしれない。

しかし、その時、私は、その人を、聖書の教えに則り、野良猫に餌をやるような慈悲深い人だと思った。

人は身なりでもなければ、雰囲気でもない、読んでいるもので評価されるべきなのではなかろうか、と思ったのだ。

 

満員電車が終点に到着し、降車の人群れでその人を見失っても、感動の余韻に浸っていた。

新しい価値観を獲得した、大げさに言えば扉が開いたような感覚を得たことへの感動である。

 

その時、ホームの端を歩くその人が見えた。

片手を電車について、立ち止まっていたのだ。

次の瞬間、胃にため込んでいたものを盛大に車体に塗りつけるとうずくまった

近くにいたサラリーマンが大丈夫ですか?と一緒に屈みこんだのだが、返ってきた、少し離れた場所にいた私にまで聞こえた声は、さわんじゃねーぞクソおやじ、であった。

 

 

聖書のモチーフを現代風にアレンジすることは敬虔なクリスチャンにとっても楽しいことなのか、コンナモノ、見つけました。

http://losangeles.cbslocal.com/2016/11/16/segways-selfies-and-amazon-prime-hipster-nativity-scene-reimagines-the-first-christmas/

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購買意欲を掻き立てる、なんだかすごいことに聞こえるが、売り物を欲しいと思わせるのは、大人相手より子供相手の方が楽である。

あいつらは、欲しいものが大人と比べてはるかにたくさんある。

欲しいものがあれば、それを隠そうとしない。

どころか全力でアピールする。

 

もちろん、親が買い与えるものなど、数百円が限度(それ以上であれば、特別な事情、クリスマスのプレゼントなど)であろう。

その数百円の売り上げのために、子供の目に付く所に、おもちゃやお菓子や、ガチャガチャが置いてある。

 

たかだか数百円であれば、ぽんっと買えるか、と言うとそうでもない。

親の立場としては、強請ったものを買ってもらえると子供に覚えられることが何より嫌だ。

正直、強請られることは非常にメンドクサイ。

それはモノを買って、と言うおねだりであろうと、何か食べたいというおねだりであろうと同様である。

応えてあげられることならまだよい。

断るのは、相手の抵抗もさることながら、良心の呵責も覚えるし、精神的にも負荷がかかる。

とはいえ、経済的な理由(いつも買ってあげるわけにはいかないし、高額の化粧品のようなまったく意味不明なおねだりも少なくない)、健康面での配慮(食べたいだけ食べさせるわけにはいかないし、甘いものを制限したい)、安全の確保(包丁が触りたい、高いところに登りたいなどなど)から断ることの方が多い。

できることなら、おねだりなどしてほしくない、というのはどの親でも同じだと思う。

 

欲しいと思ったのに、つまりは手に入るかもしれないと一度は思ったのに、手に入らない悲しさは大人も子供も同じであろう。

子供もほしいと言ったものが手に入らないと分かると泣き叫ぶことが珍しくない。

何かを欲しがって泣き叫ぶ姿には理性の欠片もない。

たまーに、笑ってくれるおばあさんもいるが、嫌な顔をされることが大半である。

し、そもそも周りがどんな顔で自分達を眺めているのか、冷静に観察できる親は多くはない。

想像上の他人は自分達には冷たい。

 

子供を持つ身になってからであっても、強請りながら泣き叫ぶ子供がいるお店に入りたいかと聞かれれば、決してそんなことはない。

怒りや不快を感じるわけではないが、他人の子供にできることなど何もなく、できれば近づきたくない。

 

結果として、ファミレスの入口においてあるおもちゃは、買ってもらえない子供、買いたくない親、親子とは関係のない客、客足を遠ざけてしまう可能性のあるお店、すべてに望ましくないような気がする。

喜ぶのは短期的に売り上げがアップして投資家への説明責任を果たせる経営者だけではないだろうか。

やはり資本家による労働者の搾取が問題なのではなかろうか。

 

それはともかく、誰もが不幸になっているシステムのような気がしてならない。

この不幸のシステムを回避する簡単な方法は、店に入る前に、新しいおもちゃを子供に与えることであろう。

結局買えってことなのか。

いや、そうではない。

新しいおもちゃは、新品のおもちゃという意味ではないからだ。

その子供にとって、目新しいおもちゃがあればそれでいいはずだ。

図書館で集中するのが苦手だ。昔から苦手だった。

何度も勉強するために図書館に足を運んだが、一向に勉強しない。

眠たくなるか、いたたまれなくなるのだ。

 

逆に集中できる場所は、自宅の自分の机だったり、喫茶店だったりした。

私はずっと、その理由は、私が喫煙者だからだと思っていた。

図書館はたばこが吸えない、だから集中できないのだ、自分の家や喫茶店はたばこが吸える、だから集中できるのだと。

 

タバコをやめてしばらく経って振り返ってみると、いや、今の自分を見直してみるとかな、この考察は間違いだったようだ。

私は未だに図書館では集中できなくて、喫茶店なら集中できるのだ。

他に集中できる場所はファミリーレストラン、電車の中、公園のベンチである。

逆に集中できないのは、深夜、家族が寝静まった後のリビングだったりする。

 

お気づきかと思うが、私にとって集中できる場所、というのは周りに人がいる場所、そしてある程度、騒々しい場所なのだ。

多分、というのは試したことがないのだが、騒々しすぎる場所は無理である。

居酒屋やカラオケボックスで集中できるとは思われない。

そして静かすぎる場所もだめなのだ。自分が音を立てないことにとらわれすぎてしまうのである。

 

この発見はちょっとしたショックであった。

一般には、集中したければ、雑音の無い空間に身を置く、と思われるのではないだろうか。

私も当然のようにそう思っていた。

なのにそれが違っていたとは。

 

ついでに言うと、自分の好きな音楽がかかっていると集中できる、と言う話も良く聞く。

私にはこれもなく、音楽はかかっていてもいなくても関係がない。

音楽を聴きながら勉強するくらいなら、テレビがついた部屋で勉強した方が集中できる。

 

人それぞれとか、個人差がとか、考え方として理解していても、自分を無意識に一般的な人に当てはめていることは多い。

ずっと異性が好きだと思って生きてきたが、歳を取ってから、同性が好きだと気付いた、と言う話には親近感を覚える。

 

騒々しい場所にいるメリットは、私にとっては集中できることだけではない。

集中力の途切れたときに聞こえてくる話が、とても面白いことが多いのだ。

それまで集中していた事柄からまったく違った話なので、新鮮なのだろうと自分では思っている。

 

昨日は、居心地のいい(あくまで私にとって)喫茶店で、ふと気づいたら2時間作業しており、近くに男性5人、若者が2とおじさんが3人、座って話していた。

おじさんたちは店長さん、若い二人は従業員のようで、同一業態で複数店舗を経営しているらしい。

業態がとんでもなく特殊なのだが、グループの一番偉い人がグループ全体の利益を上げろとしきりに言っている、にもかかわらず特定の店舗の運営、しかも儲かっていない店舗の運営にかかりっきりで、結局、口ではグループと言いながら、お店をやっているのが好きなだけなんだよなーという愚痴を語り合っていた。

外国人を雇った際の実際のトラブル事例や、投資効率のいいお店の立地条件等、その業態をやりたい人にはお宝ざくざくな話であった。

 

話しているのはもっぱらおじさん3人で、二人の若者は帰りたそうにしていたのが印象的だった。

今、私が君の立場だったら、猛烈に集中できるのに、と思ったが、たまに話しかけられたりしているので、難しいんだろうなあ。

一人暮らしのアパートに彼女が初めて遊びに来た。

付き合って3か月、唇に触れたことはある。それ以上はない。

趣味の手料理をごちそうすることになっている。

食後の片づけを二人で終わらせ、最近面白い動画があってさ、とスマホでYoutubeを開こうとしたところ、誤って、履歴から別の動画を開いてしまう。

お気に入りの一人で何度も見た、あの動画を。

何故、このスマホはこんな動画を覚えているのだ、のたうち回るっても時が戻ることはない。。。

 

 

私たちは意識せずとも、これから起こるであろうことを想定して行動している。

朝起きて会社に向かう途中、駅まで歩いて電車に乗り、何駅で乗り換え、目的の駅からまた歩く。途中のコンビニで朝食用にヨーグルトを買おう、くらいはぼんやりと考えているだろう。

 

ところが、想定外の事柄、は常に起こりうる。

電車が遅延する、途中でトイレに行きたくなる、コンビニのレジが混んでいる、等々。

想定外の結果、会社に遅刻するくらいであれば頭を抱える程度でいいのかも知れない。

しかし、真剣に対処しなければならない危機もある。

では、想定外に上手に対処するためには、どうしたらいいのだろうか。

 

対処方法を解説する前に、想定外への対処には前提条件があることに注意が必要である。

それは、即時に対応しなければならない、ということ。

時間に余裕があるときのトラブル対処とは全く違う、と言うことを理解しなければならない。

具体的には、妻から、キャバクラの名刺がスーツの胸ポケットに入っていたんだけど、と問い詰められた際、それをメールで受けたのか、直接目の前で言われたのか、は対処の方法が異なり、ここで対象としているのは後者であることだ。

 

■ソリューションは3つ、「時間」「事態」「準備」

想定外に対処するためには、まず落ち着いて考えてみることが必要だとか、悲観しないで乗り切ることが必要ですとか、精神論はここでは対象にしない。

具体的なソリューションは、想定外で何を困っているのかを見直すことで見えてくる。

まず、想定外に対処が必要だということは、先に前提として述べた通りで、即時に対応する必要がある。これを即時で無くす、つまり「時間」に働きかけるのが第一のアプローチである。

次に、困っているので、解決策が浮かばない状態である。解決策を考える、つまり「事態」に働きかけるのが第二のアプローチである。

最後に、そもそも思っても見なかったことが起こったことが問題なので、事前に思っていたこと(そして対応策も考えて置いたこと)であれば想定外の問題にならない、という「準備」をしておくのが第三のアプローチである。

 

■アプローチ1:時間に働きかけるとはどういうことか

想定外への対処は、まず、「今」困っているを、今ではなくすことから始めるべきである。

具体的には、そもそも、今すぐに対処しなければならないのか、まずは一度考えてみる必要がある。

停電でエレベーターが止まった、ライトも切れて真っ暗になった、という場合、今すぐすべきことは恐らくない。

その結果、想定外への対処にはならなくなる。

 

別の事例としては、家に帰って自分の部屋に行ってみると、ベットの下に隠しておいたものが、母親によって机の上に移動されている、こともある。あるいは、明らかに掃除した跡があり、見られた形跡がある、でもいい。

この場合も、すぐに何かをする必要はない。台所で夕食の準備をしている母は間違いなく反応をうかがっているはずだが、夕食までは顔を合わせる必要がない、つまり時間があることを自覚しよう。

 

そして、今すぐに何かをしなければならない場合、こちらは面接で想定外の質問をされたような場合、には、時間を稼ぐべきである。

面接での時間の稼ぎ方はよく知られているように、相手の質問を繰り返すこと、少し時間をくださいと頼んでみること、などがある。

数秒でも時間に余裕を持たせることのありがたさは、筆舌に尽くしがたい。

 

別の事例として、妻から風俗店の会員証(自分で署名済み)を目の前に突き付けられた場合の時間の稼ぎ方は、抱きつく、である。

なんならそのまま押し倒してしまえばさらにいい。

 

長くなってきたので、アプローチ2、3については、各自お考えいただきたい。

 

なお、本日の昼食はチェーンの居酒屋で、豚の生姜焼き定食を注文したのだが、味噌汁は、味噌を入れ忘れたらしくお湯、白湯であった。

想定外はどこにでも転がっている、このことは覚えておいて損はない。

その建物の外へ出る。

以上です。

 

ある程度の時間、滞在していることを前提とした場所があります。

喫茶店、レストラン、居酒屋などのほか、マッサージ店、床屋・美容室、マンガ喫茶、風俗店などもそうです。

このような場所で火災報知機が鳴った場合、人(お客さん)は大きく分けると、3つの行動のいずれかを採ります。

(1)何もしない、(2)逃げる、(3)店員に状況を聞く

 

火災報知器が鳴った場合、一番安全なのが、(2)逃げる、であることは疑いありません。

命を守るためには、建物に閉じ込められないよう、建物の外へ出るべきです。

注意点は2つ。エレベータを使ってはいけないことと、階下の火事で煙がひどい場合には、上へ逃げることも検討すべき、ということです。

 

実際には、何かをしている最中にとりあえず外に逃げる、という選択は意外と採れないものです。

店員さんでも、一緒にいる友人でも、逃げない人がいる中で、逃げよう、と言うことは中々勇気がいりますし、火災報知器は結構な確率で誤作動なので後で大騒ぎしたことに恥ずかしい思いをすることも多いでしょう。

 

火災報知機が鳴っても何もしない(1)の対応が批判されることがあります。

危機意識が低いのではないか、とか。

火災報知器は誤作動が多い、というが理由の一つなのでしょう。

では、本当の火事で火災報知器がなっている場合、ただちに非難することが安全であるとしても、ただちに非難しないといけないものなのでしょうか。

言い換えると、火災報知器は、火災になりそうな段階でなるのか、火災になってしまってからなるのか、という問題です。

 

火災報知器には、何をもって作動するのか、の方式がいくつかあり、例えば煙を検知してなるもの、熱を感知してなるもの、火から出る赤外線などを感知してなるもの、などがあります。

特に熱を感知するものは、相当の高温にならないと作動しない、という説明もあります。

自分がいる場所の火災報知器がどのようなものであるか、自宅や勤務先でもない限り、把握していることはまずないでしょう。

とすれば、安全のためには逃げておくのが得策、ということになります。

 

ただし、財団法人日本防火協会のホームページでは、火災報知器がなったら、まず注意しながら、状況を確認すべき、高齢者や障害者、子供は先に避難させるべき、と書かれています。

言い換えると、自力で逃げられるような大人は真っ先に避難する必要はないとも読めます。

 

以上をまとめると、火災報知器がなった場合、可能であれば建物の外へ避難する、自力で避難できる大人であれば、それほど急がなくても大丈夫、です。

 

ここからが本題なのですが、火災報知器が作動して、すぐに避難しない場合でも、まずは状況を確認する必要があります。

本当の火事なのか誤作動なのか、と言うことです。

管理人の常駐していないようなマンションであれば、自分でなっている場所を確認しに行くでしょう。

一方で、自分が「客」としている場所では、店員に状況を確認してもらうことが一般的です。

 

問題は、目の前にいる店員が状況を把握している可能性は非常に低い、と言うことです。

建物のどこかで(例えば別の階で)火災報知器がなっているときに、目の前にいる人(ウェーターさんなど)が状況を把握しているはずがないです。

そのため、目の前の店員さんに確認すべきことは、誰かが確認作業を行っているのか、そして、その結果は、つまり本当の火事で避難する必要があるのか、誤作動でほおっておけばいいのかが、どのように自分達に知らされるのか、の2点です。

前者は万が一にもお見合い(みんなが誰かがやっているだろうと思っている状態)を避けるための質問です。

そして後者は、結果が館内放送のような形でなされるのか、確認した人と店員さんの人づてでなされるのか、を知ることで、結果を知る前に避難する必要があるのかの判断基準になります。

 

ところが、実際には、大丈夫なのか?という質問をする人が非常に多いです。

そんなこと分かるわけないじゃん。

他人の判断を全面的に信じられるのはどーして?

と私は思います。

 

これ、火災報知器がなっている、緊急事態、ということとは関係ありません。

仕事で判断を仰いでいるはずなのに、大丈夫なのか?と聞かれること、結構ありますよね。

自分で判断してくれよ、ということです。

 

ところで、自分のいる建物が火事になった時、生命の危機以外の理由で恐怖することってありますよね。

例えば、不倫相手と一緒にいるところで、ホテルが火事になったりとか。

そういう時、やっぱり誰かと話をする、つまり今の自分の状態を伝えて、真摯なアドバイスをくれる人って、ほしいよなと思います。

真摯なアドバイスって言うのは、根拠なく、大丈夫だから、と安心させてくれること、なんですけどね。

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