東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
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久しぶりに、ショッピングモールに行ってみると、柳原加奈子ちゃんってすごいなあと思う。
商品見たり、自分の欲しいものを思い出して確認したり、どのお店が入っているのか調べたり、そんなことより前に、まず彼女ってすごいなあと実感する。
次に、店員さんって優秀だよなあと思う。
自分がお店で何かを売った経験がないせいもあるんだけど、どこにどの商品があるのかを覚えているのがまずすごい。
しかも、ちゃんと商品名を言えるとか、商品の説明ができるとか、までこちらが至っていないで、「こんなものがあったような気がするんだけど」、ってレベルで商品を探し出してきてくれるところがすごい。
最後に、客との話の合わせ方がすごい。
スニーカーを探していて、あるスニーカーが気に入って、自分の足のサイズを店員さんに伝える。
すると、伝えたサイズより一つ大きなサイズのスニーカーを持って現れる。
この靴は幅が狭く作ってあるので、一つ大きいサイズじゃないと合わないんです、それでもぴったりした装着感があると思うんですけどこれが最近の流行なんです。このメーカーはそこに拘っていて、どこそこのメーカーも同じ方向で開発していて、でも有名なあのメーカーはやりすぎで最近のものは少し履き心地が悪いんです、と流れるように述べる。圧倒される。
お茶を探していて、あるお茶がほしくて、でも店頭に並んでいる商品は、好みではないフレーバーが入っていて、それがないものが欲しい、と店員さんに伝える。
すると、最近は、うちのお店で扱っているこのお茶は全部、このフレーバーが入っているのだ、と言う。私も飲んでいて好きではないんですけど、しょうがないですよね、と言う。
びっくりするのは、両方とも、その専門店ではないこと。
店員さんが本当にスニーカーやお茶について、どれだけ詳しいのか、確かめる術はなく、確かめたいとも思わないけど、全ての商品を自分で試しているわけでもないだろうに、とっさに対応できるのがすごいなあと思う。
お店でモノを売るんじゃなくたって、自分の会社で扱っているサービスについては、ちゃんと説明できるようになりたいなあと思いました。
ちゃんと説明するっていうのは、正しいだけではなくて(ウソを付かないのは当然の前提だとして)、相手に合わせて、理解できるように、少し感心してくれるように、そして興味を持ってくれるように、説明できたらいいなあと。
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パンと人類を巡る話は事欠かない。
米が日本人の主食だ、命だ、という主張を否定するつもりはさらさらないのだが、パンが人類の主食であり命であるという主張の方がグローバルでワールドワイドな分だけかっこいいように思える。
人類が熱帯のジャングルで誕生した説を採れば、当初の人類はそれほど食料に事欠かなかったのではないかと想像される。
ここでの食生活は、探して・食べる、である。
食料事情に変化が生じたのは、この探して・食べる、ことが困難になったとき、つまりは人類がジャングルから移動して外にでたときがその当初であっただろう。
この段階では、一時的に食料が不足する事態が発生しえ、そのため、余った食料を保存しておく技術が要求されることになる。
この「保存」は、腐らないこと、誰か(他の人間のみならず他の動物も含めて)に食べられてしまわず、持ち運ぶことができる、ことが重要な要素になる。
多くの問題(生産性など)の議論をすっ飛ばすと、この保存性に優れた、過去から伝えられてきた食料の第一人者がパンである。
食料を巡る多くの悲劇、喜劇について、ここで改めて取り上げることはしない。
ただ、私と兄弟の間では、過酷な食料を巡る争いが勃発していたし、その中には、チューチューアイスを取り合った挙句、地面に落としてしまい腹いせに弟を殴った事件があったことは明記しておいてもかまわないだろう。また、小学校の運動会の際、屋台が出ており(クレープだったかカキ氷だったか忘れてしまったが)、昼の休憩時に親に食べたいとねだったところ、運動会が終わった後にね、という話になったものの、運動会が終わって解散の段になってみれば屋台は既に解体され、親を恨んで泣きわめき叫んだこともぜひ誰に対しても強く訴えたいところである。
パン、と一口に言っても一口で食べられるわけではなく一口でほおばるとろくなことがないのではあるが、一口ではいえないほど、いろんな種類がある。
最近では、どころか、昔から、各家庭でも作られていたし、学校の家庭科の授業でも焼いた覚えが私にはある。
原材料もいろいろ、何かを混ぜて焼いたり、何かをのせて焼いたり、何かをなんだろう絡めて焼いたり、好き放題、やりたい放題なんでもできる。
で、大事なことではあるが、何をどうしたって大概はそれなりに美味しくできる。
ここまで、そう熱くもなく語ってきた挙句、という話ではあるが、個人的にはそれほどパンが好きなわけではない。
まだ実家で暮らしていた頃、毎朝の食事と言えば、食パンと目玉焼きと千切りキャベツであった。もう毎日まいにち、同じ。前日の夕食に炊いた米が残っていれば喜んで食べていた。
そのことと関係ないような気がするが、それほどパンにこだわりがない。
こだわりがない、ものの、いやこだわりがないからこそ、どうせ食べるのであれば美味しいパンが食べたい!
とも実は思っていないのであるが、美味しいパンが食べたいのであれば、ひばりヶ丘周辺に住まうことが一つの解決策になるものと思われる。
ひばりヶ丘近辺には、美味しい、という限定が不要で、パン屋がたくさんある。
駅の改札を出れば目の前にパン屋、駅前のパルコと西友にはそれぞれパン屋、北口に降りればサンメリー、バス停まで歩いていけばまたパン屋。
南口を出て田無まで歩けばパン屋、パン屋、パン屋、アサクラベーカリー、とたくさんある。
名前をたまたま覚えているアサクラベーカリーはもちろん、なんの留保もなくオススメできるパン屋であるが、名前があっている保証はない。
また、他のパン屋も名前を覚えていないだけでどこも美味しい。
なお、少し足を伸ばせば、って足ではなく電車や車で移動すべき距離なのだが、東久留米や東伏見にはマイが、朝霞には朝霞ベーカリーがそれぞれ聳え立っている(実際にはそれほど大きな建物ではない)。
西東京市のパン屋の数は、近隣の諸市に比べて多い方だと思う。
これは個人的な感想だけではなく、おいしいパン.ネットなどで調べても、どことは特定しないがどこぞの市には圧勝、三鷹や武蔵野には負けるが、まあ誤差の範囲、という感じである(パン会社の団体については、そのプロモーションに差があって、どうしてこうなってしまったのか?を考えると興味深い)。
ぜひ、西東京市の農業と合わせて、パンも市として、地域の特産品扱いでおおいに後押ししていただきたいものだと思う。
なお、その際、野菜パン、という安易な手法だけはくれぐれも避けていただきたいなー、とこれまた思うところである。
本やインターネットでは得られない、体験することでのみ得られる知識というものがある。
実際にその場所へ「自分で行って」みよう、それを「自分でやって」みよう。
そうすることでしか得られない何かがある。
まずは一歩踏み出してみよう!
ニートの諸君、街へ出よう!というススメではないか、時折目にするスローガンである。時折耳にするスローガンである。そして、時折実感するスローガンである。
この言葉の意味するところは、ある状況について書かれたものは、動画で見られるものは、他人のフィルターを通しているので、自分でその場所に行って気づくものはまた別にある、というところにある。
気づいた事柄が有益であるか、はここでは問題ではない、というかむしろさして有益ではないことの方が多いだろう。きっと、その自分でしか気づかない事柄は、他の誰かにとって、正直に言えば、他の誰にとってもどーでもいい、ことが多いと思う。
それでも、自分で気づくことの大切さは存在する。
あなたが、自分自身の体験を、とても貴重だと実感するであろうことが一つ。
そしてもう一つは、それがあなたの見方・考え方に影響する結果、あなたがより魅力的になることである。
大上段に振りかぶっておいて、どうでもいい話を始めるのだが、開店前のスーパー、デパートには行列が出来ていることがある。
市役所や図書館にも行列ができていることがある。
私にはとても不思議な光景に映る。
例えば、先着何名様、で販売しているものがあるなら分かる。
例えば、時間の調節が上手くいかなくて早く着いてしまうのも分かる。
でも、開店前に集う人たちはそういう人たちばかりではないのだ。
特に買えるものがなくたって、開店前から並ぶ人たちがいることは、お店のことを知っていれば(つまり早く買うと得な、って少なくとも経済的には)がないことで説明できる。
時間の調節以外の理由で早く来る人がいることは、毎日、同じような人が並んでいることから説明できる。
つまりは、始まる前から並ぶことが好き、な人たちが一定程度居るってことだ。
ファミレスには、ファミリーレストランの看板とは裏腹に家族が実は少ない、ということは知っていたが、遅い時間に行くと、結構一人で来店している老人が多い。
彼らは、特にファミレスに来る理由もなさそうであるし(食事をする場所ならいくらでもありそうだし、ドリンクバーもあまり利用しない)、しかも常連のように来るものも多い。
ファミレスのバイトと、久しぶりー、なんて挨拶しているのを聞いていると、不思議以外の感想は浮かばない。
ファミレスは居やすいような気がしなくもないのだが、食べ終わるとそそくさと帰ってしまう。
たまたま他人の行動はよく分からない例を並べてみたものの、だからここから、現代人は時間をもっと有益に使うべきであるとか、老人があたたかく食事できる場所を提供すべき、と思っているわけではない。
ただ、自分が普段行かない場所に行くと、聞いたこともないような体験ができて、それになんの意味があるのか分からないけど、自分自身ではちょっとしたことに気づいたって満足感を得られるよ、という話である。
この自分が普段行かない場所、を刺激のある場所にすべきだ、との意見もある。
旅を推奨する一派がこれに該当する。
旅に出れば、人は新しい発見をする。
旅に出れば、新しい出会いがある(人間との出会いだけではなくてね)。
旅に出れば、自分の新しい一面と向き合うことができる。
このような話を否定するつもりはない。
否定はしないが、いつも旅にでるのは疲れてしまうような気がする。日常の中で、ちょっとした、普段自分がいかない場所へ行ってみること、も十分に気づきがある面白い行動なんじゃないかと思う。
そういう意味で、西東京市なんて、大した観光名所があるわけでもなく、びっくりする新しいものに出会わない、でも普段と違う体験のできる場所のひとつなのではないか、と思う、いや思いたい。
少し欲しいモノがある。
どうしてもほしいとか、なんとしてでもほしいとか、そこまでじゃなくて、でも、あきらめてしまうのも惜しい。
私は小さいときから手に入るものより手に入らないものが多くて、段々と手に入れたいという欲求自体が少なくなってきたのだけれど、それでもほしいものが、たまに出てくる。
少しお金を出すくらいだったらいいのだが、手に入らないものもたくさんある。欲しい気持ちよりも、手に入れること自体をあきらめてしまうことがたくさんある。
そんなあきらめる理由のひとつが、私がこれを手に入れるためにすることが、他人にとってはあまり役には立たないとか、これを手にするためにすることより他のものを手にすることの方が他人にとって利益になる、なんてことがある。他人はコミュニティーであることが多い。
これって、コミュニティーをつまらなくさせる方向の思考なんだよなと思う。
もっと自分の欲望に忠実な方が、自分も他人も楽しくなるのに。上手くいかなかったり、利益にならなかったりするかもしれないけど、より成功に近いものを選んでいるだけで、成功に至る要因なんて、自分が思うよりも遥かにたくさんあるのだ。そう考え始めると、自分の選択はやっぱり間違えていたのではないか、とつくづく思う。
でも、自分の欲望に忠実だってことが、他人に知らせてよいことなのか、は悩む。これを恥の文化圏の人間である、と思われるであろうか。
目先の利益ばかり考えているようでは成功できない、なんてこともよく言われるけど、どれが目先の利益なのかの判断ができる人にはこんな忠告は不要な気がする。
自分の気持ちや欲望に忠実であることが目先と言いきれるだろうか。
そんな益体もないことを考えながら、出張の帰りに、職場に買って返るお土産を物色し、餃子ポテトチップスではなく、とちおとめ饅頭を購入した。
ずっとこの日を待っていた。
後何日、を指折り数え、メモし、でも誰にも言えないのでさりげなく会話に溶け込ませて自分の耳にも音を届けた。
影響のありそうな全ての要因をそっと手のひらで押し出したり捕まえたりした。
当日、少し時間は押してしまったし、待ちわびた時間までの過ごし方には不満があったのだけれど、何とかそのときを迎えられた。
もちろん、これはスペシャルタイムが開始されたことを意味するのみであって、なんらかの結果がもたらされたわけではない。
結果を期待しうるような席につけただけのこと。この席に提供される料理がなんであるのか、皿を見るまでは、もっと言えば口にしてみるまでは分からない。皿が提供されるのかだって確かではない。
でも、私は席に座ったんだし、その席でワクワクしていたんだ。これから始まる何かに。
準備のために時間をかけ、しばし、しかし、じっくりと待ち、心を静めて、自分の鼓動を確かめ祈る。
釣竿にかすかな振動を感じるだけで血液の温度が跳ね上がる。
いくどかの繰り返し、段々と持ち上がってくる今日は何もなく終わるのではないかという猜疑心。
確かな手ごたえがやがてもたらされる。
感触は十分、月並みながら心が躍りだす。
足取りは確かに、踏み外さぬように、強く踏みしめすぎないように、一歩一歩進んでいく。
過去の記憶を甦らせ、反芻し、記憶が塗り替えられた暁には用済みとなる最後の余韻を楽しむ。
紙一重、刹那の時間で期待が打ち砕かれる。
幸い、こちらにダメージは生じていない。一球、派手に空振っただけだ。
とはいうものの、元の地点には戻れない。大事時間もかけてしまった。
手ぶらのまま前進する。目的地に到達してしまうわけにはいかないが、中途半端な場所では身動きが取れない。
手を、思考を、期待を止めることは許されない。一瞬たりとも止まってはいない。ゆっくりと回転し続ける。
休息の地で脚だけが疲れを取り、次の行軍に備える。
時間が厳しくなってくる。
手ごたえも徐々に減ってくる。
かすかな望みは、かすかな手ごたえを、増幅させる。
心拍数を押し上げる力強さはどこにもなく、けだるさばかりが溜まっていく。
そしてついに、時間が切れる。あれほどあった時間が。あれほど望んだ時間が。
訪れるのは完全な絶望ではなく、一抹の寂しさと、些細な安堵感。
何も得るものはなかったが、失ってもいないのだ、と慰めとも言い訳とも付かない言葉を口の中で転がす。
肌で感じる空気は、意識しても感触がなく、世界は茫洋と瞬いていた。