生きていると、任されて何かを選ばなければいけない場面が多々出てくる。
相手の好みが全く分からないまま、なんでもいいよ、と言われて選ぶ場面が。
友人へのプレゼントにしてもしかり、先輩との飲み会のお店にしてもしかり、義父母の旅行先にしてもしかり。
こちらから相手に贈るもの、とか、お金をこちらが払う、とかであればまだ救われる。
ただ相手も払う、とか、相手が奢ってくれる、なんてときには本当に困り果てる。
私にとって一番辛かったのは、ヌケル場所をと頼まれ、方法も年もその他の趣味も分からないままサービスを検索したことだろうか、という思い出を語ることが今後ともないことを願いたいけど。
当然のことながら、選んだこちらのセンスが問われているわけで、がっかりされるのは避けたい。
とすると、まずは地雷を避けることになる。
初めてのデートのお店を任されたとき、ラーメン屋は選ばないでしょう、みたいな。
贈り物ったって、生物はそりゃあなしだよね、とか。
ここで失敗することが、まあそれなりに散見されるので、ってホワイトデーの職場のお返しにバンティー贈ってしまうようなね、世の中は楽しい、のではあるけれど、自分が相手との将来を捨ててまで笑われたいと思うことはまずない。
ここまでは大した障害もなくくる。問題は次だ。
どストライクな回答が得られる場合がたまにある。
雰囲気が良くて、でも安い居酒屋を知っているとか、数千円で買えるのに世間で品薄になっている商品が手に入るとか。
まあこんなときには地雷を避けることすら検討することなく、それを選べばいい。
つまり、意味のない妄想だ。
ただ、妄想だと気づくことには意味がある。
妄想だと気づいたときには悩みのループを抜け、次に進める。
要するに回答のない問題なのだ。
となれば考えるべきことは絞られる。
自分の好みのものを探すのだ。
自分の食べたいものを考えればいいし、自分のもらったらうれしいものを考えればいいし、自分の行きたい場所を選べばいい。
少なくとも、それを考えている時間を楽しめる。
自分が満足できるものを見つけたとき、自信だって芽生えるだろう。
自分を信じてみてはどうだろうか。
ただ、私は人からこの手の悩みを相談されたときに、なんらかの具体的な回答を返せるようでありたいと思う。
相手にもっとよく聞いてみたら、という返事をする人間にはなりたくない。
少なくとも西東京市近辺でオススメの場所や、お店なら、シチュエーションに応じて、ご相談に乗りますよ。
で、そなたの名前はなんじゃ?
私には名前というものはございません。ただ、市場のゴミ拾いと呼ばれております。
では、そのゴミ拾い、それがそなたの名前なのではないか?
~トキと殿様の35日~
モノに名前がないと不便だ。
共通のモノについて他人に伝えるときに、それを共有できないからだ。
この不便を回避するために、私たちはとてつもない労力をかけている。私たちは生まれてきた赤ん坊にまず名前をつけ赤ん坊はその名前で呼ばれると反応することで空腹を満たす、親からモノの名前を順番に教わり、学校に入れば先生や友達の名前を覚えることを強要され、入試では外国人がモノにつけた名前まで暗記する必要がある。
このようにモノの名前を覚えることに尋常ならざる熱意と時間とうんざりが費やされる一方で、自分でモノに名前をつける機会というのはそれほど多くない。
そう名づけの機会が少ないことが今日の我が国における最も重大な問題の一つではないかと考えられるのである。
この問題が端的に表れているのが、キラキラネームとかDQNネームとかって言われているもの、と良く世間を騒がせている。
しかし、個人の名前なんて所詮は個人の名前であって、しかも他人の名前であって正直どうでもよい。
読めない漢字が云々、という議論もなされているが、そもそも一部の国の文字の読み方なんて知らないし(お隣の国すら分からない)、そのうち、なんでもカタカナで、という方向に流れていくものと思われる。
ではこの問題を語る上で、外せないポイントは、変な人名でなければなんだろうか。
ここで一つ寄り道をさせてほしい。
西東京市には「産地直売」と旗を掲げ、自作の野菜を売っている農家が何十軒かある。
多くは棚に野菜が野ざらし(ってちょっとつじつまがあっていませんが)になっていて、お金を入れる缶が置いてある。余談の余談のようではあるが、この缶そばに貼り紙がしてあり、この貼り紙の文章を味わうだけで時間がつぶせてしまう、そんな名文がそろっており、野菜も文章も味わい深い。
この野菜、スーパーで購入するより鮮度が良く、したがって美味しく、その上、大きく、安い。たまに農家のおばあさんに料理の仕方や、その他人生の奥義を教えてもらえることがあり、一度だけ、畑から取ってくるから待ってな、と言われて、もぎたてをもらったこともあるが、親切まで受け取ることができる。
このいいこと尽くめの「産地直売」一つだけ、看過しえない問題があり、それが名前がないことなのである。
一つだけ、と言いつつ二つ目の問題を書き始めてしまうのだが、この産地直売、分かりづらいところにあることが多いように思う。ふらふらしていてたまたま出会っても、そこに二度目に行き着くために相当の苦労をすることになることも多い。
で、はじめの問題に戻るのだが、その分かりづらい場所にあるサンチチョクバイに家人を誘うに当って、行き先を共有することが非常に難しい。
私が思っているとこが、家人の思うそれと異なる場合、移動手段(徒歩か自転車か車か)、服装、装備(水筒)全てにどちらかが不満を抱えることになってしまう。
この問題の解決策として、農家の名前で区別すればいいじゃん、と思ったあなた。
西東京市の農家事情について、ほんものの素人のそしりを免れない。
現地に赴けばすぐに私の言わんとしていることを理解してもらえることと思われる。
ぜひ、一度、サンチチョクバイ・ツアーに、西東京市にいらしていただきたい。
なお、どこの農家で今、なんの野菜を売っているかが分かると非常に便利だし、農家も儲かるのでは?と思ったりもするのだが、それは野暮というものではなかろうか、と個人的には思っている。
ふらふら、あちこち歩きながら、あるんだかないんだか分からない野菜を探し、掘り出しモノに当ることもある、というのが楽しいものだから。
生活保護を巡る議論について、「民意」とは何かを考えてみたい。
この制度については、あるべき制度について合意することが非常に難しい一方で、人の生存に関わる問題であるため、最低限の合意可能な民意を前提にそこまでの制度構築をした上で、その先を語るべきなのではないか、と思われる。いたずらに現行制度の理解や運用について議論して時間を浪費すべきではない。
では、その最低限の民意とは何か。
民意という言葉は漠然としているが、例えば次のような設問を考えてみる。経済的困窮に陥った者がいる。その者が餓死することを許容できるだろうか?
私は容認できない。この問題に対する回答が、AKBが好きですか?よりも、原発の再稼動を容認できますか?よりも、回答に対する支持を多く集め(反対が少なく)、かつ反対者を許容できないと考える者が多い、という点について合意できるのではないだろうか。私は人を殺めることを許せますか?よりも、経済的に困窮して餓死することを許容できないという意見の方が(正当防衛等を考える必要もなく)多いのではないかとすら思う。
感情論だと批判されてもかまわないし、一切の異論を受け付けない。私はこれが民意だと思っているので、その前提で話を進める。
次に、餓死することを防ぐ役割は誰が担うべきなのか?私は国だと思う。だが、この点は、上記設問ほど異論がないわけではないだろう。
例えば、家族が援助すべきである。例えば金持ちが援助すべきである。いくつかの主張が考えられる。
話がややこしくなるので、国外のことはとりあえずここでは考えない。
国がこの役割を担うことに対する異論は異論足りえているのだろうか?
私は上記民意から、国以外の担い手を一次的に想定することは困難だと思われる。経済的に困窮した者を、現時点で、間違えなく、悉皆的に、餓死させない能力を持つ者が国しかない以上、国に役割を担わせるという一択だと思われる。そして、ここまで、合意することは難しいことではないと思われる。
そのため、私はここまでを民意だと考えている。
では、この民意は政策に反映されているのだろうか?答えは明らかに否、である。
何故なら、国が当該役割を担い切れなかった実例があるからだ。
現在議論されている内容で、叫ばれている主張の中で、この民意が実現されるだろうか。私はこの問題にも否、と答える。確かに主張されている内容が認められれば、この民意は満たされるかもしれないが、その主張が認められる時間を考えていないように思われるからだ。
現物支給を巡る議論も迷走しているように見えるが、私は食料については現物支給でもよいのではないかと思われる。
食料なんてたかが知れているし、多少の不正受給者がいたってかまわない。絶対に餓死者を出したくないのだ。
以下はつけたしということで、上記についてとは別に考えていただきたいのですが、、、
経済的な困窮が原因で亡くなる、というのは何も餓死に限られません。クーラーのない部屋で熱中症で亡くなった、なんていう事件があったように記憶しています。では、ここまで、つまり経済的な困窮が原因で亡くなる人がいるのは許さない、という民意があるかについて、私は自信がありません。
また、民意って、経済的困窮については親族がなんとかしろ、なんとかしない親族は公表しろ、あたりにあるような気がしています。私の理解が間違っていることを願ってやみませんが。
森林公園って駅があるじゃん。レンタサイクルもあるし、広いし、人もたくさんいるし。
でも、遠いんだよねー。
~twitter :id500~
西東京市には住吉森林公園、という市のホームページの公園一覧にも記載がない公園が存在する。
たまたま散歩途中で見つけ、お邪魔してみた。この公園に足を踏み入れたのは私が人類で始めてではないか、もしかして有史以来の大発見なのではないか、と興奮したりもしたのだが、既に先人がおられた。
http://www.asahi-net.or.jp/~sv5t-ysgk/mataroku0-1.html
場所は秘しておきたかった気持ちもあるが、リンク先に書いてある。これでたどり着けるのか?と思わないでもない。
なお、当該リンク、たまたま見つけて許可も得ずに掲載しているのだが、味わい深い文章でもあるし、また同じようなことに興味を持つ人もいるのだなあという意味でも大変に興味深い。
本題に戻ると、この公園、看板に気づかないと、そもそも入り口があることすら意識されることが少ないのではないだろうか。というより、もっとそもそも、この道を散歩で歩くことになる状況が偶然以外にあまり思いつかない場所にある。
運良く看板に気づいたとして、本当に入っていいの?で躊躇する。多くの冒険者はここで慎みという壁に阻まれるであろう。
中に入ってみると、私は意外と広いと感じた。入り口は窮屈だが、中は広く、温かく・・・と続けるのはただの下ネタなので思っても口にだしてはいけない。口に出すほうがいいのではと思ってはいけない。
誰もいないと全体の雰囲気はいい。都会の喧騒をしばし忘れて森林浴を満喫するには絶好である。プライベート感満載なのだが、どうも、そのプライベートの主が自分ではないような気がするので、物音を立ててはいけないような気がする。誰かの敷地に不法侵入しちゃったような気分になる、のは私が小心なせいかもしれません、いやきっとそのせいです。
訪れた方になんとしてもご覧いただきたいのは、公園の中の看板である。
たまたま曇りの日に訪れたことも重なり、木々にさえぎられてただでさえ太陽燦々とはほど遠い、薄暗い園内、この看板をちゃんと読むと本当に恐ろしいことが書いてある。看板の古さがまた怖さを引き立たせる。一体どこまで落ちてしまうんだろうと心配になる。詳細は現地でご確認いただきたいが、一見の価値がある。
西東京市にはまだまだ観光スポットがたくさんあり、一つでも多く紹介し、一人でも多くの旅行者を呼び込みたい、その旅行者に地元にお金を落としてほしい、できれば私が後日偶然発見するタイミングで、財布毎落としていっていただきたい(といっても小心なので交番まで届けるだけなんだろうけど)、と願ってやまない。