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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

生活保護を巡る議論について、「民意」とは何かを考えてみたい。

この制度については、あるべき制度について合意することが非常に難しい一方で、人の生存に関わる問題であるため、最低限の合意可能な民意を前提にそこまでの制度構築をした上で、その先を語るべきなのではないか、と思われる。いたずらに現行制度の理解や運用について議論して時間を浪費すべきではない。

では、その最低限の民意とは何か。
民意という言葉は漠然としているが、例えば次のような設問を考えてみる。経済的困窮に陥った者がいる。その者が餓死することを許容できるだろうか?
私は容認できない。この問題に対する回答が、AKBが好きですか?よりも、原発の再稼動を容認できますか?よりも、回答に対する支持を多く集め(反対が少なく)、かつ反対者を許容できないと考える者が多い、という点について合意できるのではないだろうか。私は人を殺めることを許せますか?よりも、経済的に困窮して餓死することを許容できないという意見の方が(正当防衛等を考える必要もなく)多いのではないかとすら思う。
感情論だと批判されてもかまわないし、一切の異論を受け付けない。私はこれが民意だと思っているので、その前提で話を進める。

次に、餓死することを防ぐ役割は誰が担うべきなのか?私は国だと思う。だが、この点は、上記設問ほど異論がないわけではないだろう。
例えば、家族が援助すべきである。例えば金持ちが援助すべきである。いくつかの主張が考えられる。
話がややこしくなるので、国外のことはとりあえずここでは考えない。

国がこの役割を担うことに対する異論は異論足りえているのだろうか?
私は上記民意から、国以外の担い手を一次的に想定することは困難だと思われる。経済的に困窮した者を、現時点で、間違えなく、悉皆的に、餓死させない能力を持つ者が国しかない以上、国に役割を担わせるという一択だと思われる。そして、ここまで、合意することは難しいことではないと思われる。
そのため、私はここまでを民意だと考えている。

では、この民意は政策に反映されているのだろうか?答えは明らかに否、である。
何故なら、国が当該役割を担い切れなかった実例があるからだ。
現在議論されている内容で、叫ばれている主張の中で、この民意が実現されるだろうか。私はこの問題にも否、と答える。確かに主張されている内容が認められれば、この民意は満たされるかもしれないが、その主張が認められる時間を考えていないように思われるからだ。

現物支給を巡る議論も迷走しているように見えるが、私は食料については現物支給でもよいのではないかと思われる。
食料なんてたかが知れているし、多少の不正受給者がいたってかまわない。絶対に餓死者を出したくないのだ。


以下はつけたしということで、上記についてとは別に考えていただきたいのですが、、、
経済的な困窮が原因で亡くなる、というのは何も餓死に限られません。クーラーのない部屋で熱中症で亡くなった、なんていう事件があったように記憶しています。では、ここまで、つまり経済的な困窮が原因で亡くなる人がいるのは許さない、という民意があるかについて、私は自信がありません。
また、民意って、経済的困窮については親族がなんとかしろ、なんとかしない親族は公表しろ、あたりにあるような気がしています。私の理解が間違っていることを願ってやみませんが。

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