東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
年末によく行われること、と言えば大掃除である。
めんどくさいこと限りなくので、止めてしまえばよさそうなものだが、
これをしておかないと気持ちが悪い人もいて、だったら自分でお好きなだけどうぞ、
というわけにもいかず、なぜか家人が巻き込まれることとなる。
かくして、街には不機嫌な中高年が溢れかえることもできず(家で掃除しているため)
掃除中の父親から小遣いをせびれなかった子供達が寒さに凍えていることになる。
これが2014年の日本の姿である。
かどうかはともかく、掃除に比べたら、年末の買い出しは楽しい部類の行事、言いきって
しまえば娯楽の一つとなる。
かくして、街中の商店、スーバーからショッピングセンターまで、笑顔の人で埋め尽くされる
こととなっている。
実際、その混雑ぶりは、有る者に言わせると通勤電車を遥かにしのぐ、と言う。
これは人の密集度の問題ではなく、どれだけ他人の吐いた息を肺に吸い込むか、で比較した
場合の話だそうで、通勤電車の中では多くの人が自分を殺し息をひそめていることに
起因するのだという。
どう比較し、どう並べ立て、どうしてみたところで、年末の買い出しの楽しさに異論をはさむ余地
はない。
父親は家事(多くの日本の男性は、興味深いことに、家事を「妻の奴隷となること」と
定義していることが多い。彼らは、平日、専業主婦が一人で行う家事を、おままごとと
呼ぶことがある)からの解放感に浸りきっている。
母親はお金を使う、という喜びに我を忘れ、子供達は何とか自分の欲しいものをカートに
しのばせようと必死になっている。
一人ひとりが自らの欲望に忠実に生きている姿、これを見ずして1年を終えてどうする、
と思ってしまうのは私一人ではあるまい。
よいお年を。
めんどくさいこと限りなくので、止めてしまえばよさそうなものだが、
これをしておかないと気持ちが悪い人もいて、だったら自分でお好きなだけどうぞ、
というわけにもいかず、なぜか家人が巻き込まれることとなる。
かくして、街には不機嫌な中高年が溢れかえることもできず(家で掃除しているため)
掃除中の父親から小遣いをせびれなかった子供達が寒さに凍えていることになる。
これが2014年の日本の姿である。
かどうかはともかく、掃除に比べたら、年末の買い出しは楽しい部類の行事、言いきって
しまえば娯楽の一つとなる。
かくして、街中の商店、スーバーからショッピングセンターまで、笑顔の人で埋め尽くされる
こととなっている。
実際、その混雑ぶりは、有る者に言わせると通勤電車を遥かにしのぐ、と言う。
これは人の密集度の問題ではなく、どれだけ他人の吐いた息を肺に吸い込むか、で比較した
場合の話だそうで、通勤電車の中では多くの人が自分を殺し息をひそめていることに
起因するのだという。
どう比較し、どう並べ立て、どうしてみたところで、年末の買い出しの楽しさに異論をはさむ余地
はない。
父親は家事(多くの日本の男性は、興味深いことに、家事を「妻の奴隷となること」と
定義していることが多い。彼らは、平日、専業主婦が一人で行う家事を、おままごとと
呼ぶことがある)からの解放感に浸りきっている。
母親はお金を使う、という喜びに我を忘れ、子供達は何とか自分の欲しいものをカートに
しのばせようと必死になっている。
一人ひとりが自らの欲望に忠実に生きている姿、これを見ずして1年を終えてどうする、
と思ってしまうのは私一人ではあるまい。
よいお年を。
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区切りの時期に、振り返り、やり残しを数え上げ、次への抱負を暖めなおす。
自分にとって分かり切ったことをあえて言葉にすることの大切さは年々実感されるところです。
意外といろんなことを忘れつつ生きていることに、やっと思い当ったというか、
忘れていることを思い出す機会が増えたというか。
今年の私にとってのテーマは、健康、でした。
身近な人、どころか自分自身が体調を崩し、健康でいることがいかにありがたいことなのか、
健康でいる間に、自分のしたいことをできるかぎりやってしまわないといけないのか、
がよく分かったような気がします。
ついでに体力が衰えたときの生きる楽しみ、みたいなものを見つけておくべきなのだろうなあ、
と思ったりしました。
健康に気をつけて、オススメの健康食品があるんですぜ!っていう話題でなくて、
なんだか恐縮するところもありますが。
西東京市周りでは、市議会議員選挙もありました。
落選された現職の方には(私が念頭に置いているのは一人なのですが、そもそも現職で落選
された方が何人いらっしゃるか調べていません)、在任中の活動が否定された、という
捉え方をされないでほしい、と切に願います。
在任中のご活動を、私はあまり評価しませんが、いずれにしても、そのことが反映された
選挙結果だとは思えません、という意味です。
ついでに、発信力No.1、とポスターに書かれていた候補者の方には、何を根拠にそんなことを
書いているんだ!?と思ったりしましたが、土砂降りの雨の中、駅前で迫力ある声を
響かせておられたのを伺い、No.1を名乗られるのも分からんではないなあと思ったり
しました。あとは、お話の内容がもう少し実のあるものだと個人的には良かったのではないか
と惜しまれます。
その他の出来事としては(ひばりがおか駅周りってことですが)、
・二郎に一度しか行けなかったとか、
・サンメリーの代わりに新しいパン屋ができるかと思っていたのに出来なくて散歩して
少しあるいてイットクさんとかに言ったとか
・シメの定番、大番にライバルが出現するも、ヒバリの駅前で秋津ってお店が繁盛するのは
心情的に微妙とか
なんてことでしょうか。食べ物の話ばかりで恐縮です。
2015年は、北口の再開発が進むといいなあ、と願ってやみません。
ライフとクラ寿司の中間当りのセブンの前の渋滞も緩和されるとうれしいです。
ついでに、こんなどうでもいい文章に目を留めてくださった全ての方に幸運が舞い込んで
ほしいものです。
自分にとって分かり切ったことをあえて言葉にすることの大切さは年々実感されるところです。
意外といろんなことを忘れつつ生きていることに、やっと思い当ったというか、
忘れていることを思い出す機会が増えたというか。
今年の私にとってのテーマは、健康、でした。
身近な人、どころか自分自身が体調を崩し、健康でいることがいかにありがたいことなのか、
健康でいる間に、自分のしたいことをできるかぎりやってしまわないといけないのか、
がよく分かったような気がします。
ついでに体力が衰えたときの生きる楽しみ、みたいなものを見つけておくべきなのだろうなあ、
と思ったりしました。
健康に気をつけて、オススメの健康食品があるんですぜ!っていう話題でなくて、
なんだか恐縮するところもありますが。
西東京市周りでは、市議会議員選挙もありました。
落選された現職の方には(私が念頭に置いているのは一人なのですが、そもそも現職で落選
された方が何人いらっしゃるか調べていません)、在任中の活動が否定された、という
捉え方をされないでほしい、と切に願います。
在任中のご活動を、私はあまり評価しませんが、いずれにしても、そのことが反映された
選挙結果だとは思えません、という意味です。
ついでに、発信力No.1、とポスターに書かれていた候補者の方には、何を根拠にそんなことを
書いているんだ!?と思ったりしましたが、土砂降りの雨の中、駅前で迫力ある声を
響かせておられたのを伺い、No.1を名乗られるのも分からんではないなあと思ったり
しました。あとは、お話の内容がもう少し実のあるものだと個人的には良かったのではないか
と惜しまれます。
その他の出来事としては(ひばりがおか駅周りってことですが)、
・二郎に一度しか行けなかったとか、
・サンメリーの代わりに新しいパン屋ができるかと思っていたのに出来なくて散歩して
少しあるいてイットクさんとかに言ったとか
・シメの定番、大番にライバルが出現するも、ヒバリの駅前で秋津ってお店が繁盛するのは
心情的に微妙とか
なんてことでしょうか。食べ物の話ばかりで恐縮です。
2015年は、北口の再開発が進むといいなあ、と願ってやみません。
ライフとクラ寿司の中間当りのセブンの前の渋滞も緩和されるとうれしいです。
ついでに、こんなどうでもいい文章に目を留めてくださった全ての方に幸運が舞い込んで
ほしいものです。
西東京市にある知的障害者更正製施設で、虐待があったとして市議会に報告されている、らしい。
http://blogs.yahoo.co.jp/a070037/9547168.html
痛ましいよなあ、と思う。
今までなんの兆候もない施設ではないのだ、なんでもしようがあったのではないか、とう気がする。
もちろん、気付いていても止められない人がたくさんいたことは想像に難しくない。
でも、他人を責めてみても、いい方には、改善には、向かわないと思う。
では、どうしたらいいのか?
私は、障害者の施設を管理を、行政が今以上にしっかりやれば、痛ましい事故がなくなるとは思っていない。皆無ではなくとも、減ればいいのではないか。その減る、は健常者が暴力行為を受ける程度に減らすことで、これは二度と生じない、ことと数字的には似たようなものだ。
障害者に対する虐待をなくすにはどうしたらいいのか?
障害者に虐待しないような人に世話を任せればいい。
障害者を虐待しないような人をどうしたら見つけられるのか?
そんなことに正解はない。ただ、見つけたことの責任を、自分で取れるようにすべきなのではないか、と思う。障害者自身が選べればそれでもいい、家族がいれば家族でもいいと思う。
今は、見つけることもできず(行政の認可している施設は限られていて職員を選ぶ自由なんて普通はない)、見つけても(費用的な意味で)頼ることもできず、という状態にある。
では、自分の家族にいる障害者が傷つかないよう、生きていくための世話人をどうやって見つけるのか。その費用をどうするのか。それは、集めるのだ、自分で。
それってすごい大変なことを一部の人に押し付けようとしている、ように聞こえるかもしれない。
もちろん、その通りだ。
でも、現在、費用を自分で集めようとしても上手くいかないのには、人々の善意の総量が足りない、以外にも理由がある。それは、寄付をしたところで、税金が安くならない、という制度によるものだ。
これに対して、現在の制度はどうなっているのか。私は寄付もしない、実際に手を動かして障害者のために何かをすることもない。
代わりに、税金を納めている。そしてその税金が、障害者のために、役立てられると思っている。今回のたんぽぽの虐待事件は、その税金の使われ方が不適切だった、と言い換えることもできる。
上記は個人的な意見に留まるものである。しかしながら、同様に、
誰かを責めるのではなく、解決策を模索するような議論が、市議会でなされることを期待してやまない。
http://blogs.yahoo.co.jp/a070037/9547168.html
痛ましいよなあ、と思う。
今までなんの兆候もない施設ではないのだ、なんでもしようがあったのではないか、とう気がする。
もちろん、気付いていても止められない人がたくさんいたことは想像に難しくない。
でも、他人を責めてみても、いい方には、改善には、向かわないと思う。
では、どうしたらいいのか?
私は、障害者の施設を管理を、行政が今以上にしっかりやれば、痛ましい事故がなくなるとは思っていない。皆無ではなくとも、減ればいいのではないか。その減る、は健常者が暴力行為を受ける程度に減らすことで、これは二度と生じない、ことと数字的には似たようなものだ。
障害者に対する虐待をなくすにはどうしたらいいのか?
障害者に虐待しないような人に世話を任せればいい。
障害者を虐待しないような人をどうしたら見つけられるのか?
そんなことに正解はない。ただ、見つけたことの責任を、自分で取れるようにすべきなのではないか、と思う。障害者自身が選べればそれでもいい、家族がいれば家族でもいいと思う。
今は、見つけることもできず(行政の認可している施設は限られていて職員を選ぶ自由なんて普通はない)、見つけても(費用的な意味で)頼ることもできず、という状態にある。
では、自分の家族にいる障害者が傷つかないよう、生きていくための世話人をどうやって見つけるのか。その費用をどうするのか。それは、集めるのだ、自分で。
それってすごい大変なことを一部の人に押し付けようとしている、ように聞こえるかもしれない。
もちろん、その通りだ。
でも、現在、費用を自分で集めようとしても上手くいかないのには、人々の善意の総量が足りない、以外にも理由がある。それは、寄付をしたところで、税金が安くならない、という制度によるものだ。
これに対して、現在の制度はどうなっているのか。私は寄付もしない、実際に手を動かして障害者のために何かをすることもない。
代わりに、税金を納めている。そしてその税金が、障害者のために、役立てられると思っている。今回のたんぽぽの虐待事件は、その税金の使われ方が不適切だった、と言い換えることもできる。
上記は個人的な意見に留まるものである。しかしながら、同様に、
誰かを責めるのではなく、解決策を模索するような議論が、市議会でなされることを期待してやまない。
突き動かされるような欲求、というのは衝動的に発生するものであって、事前に予測することは難しい。
もちろん、三日間寝ないで仕事していれば寝たくてたまらなくなるのだろうし、砂漠で1日水を飲まないとのどの渇きを癒すことを心底願うのだろうとは思う。
日常的に生じ得ない状況を前提としなければ、欲求は自分でも思いもよらないときに、やってくる。しかもドアを乱暴に叩きはじめる。
歳を取るにつれて、この手の衝動が減ってきたような気がしている。
私の個人的な生活環境の変化、例えば子供ができて、以前のようにマンガを全巻オトナ買いするような余裕がなくなった、ことも影響しているのだろう。
それでも、とりわけ、何かをむしょうに食べたくなる、という衝動はなくならない。ただこれとて頻度は相当に落ちている。
ここ数ヶ月、思い出したかのように襲い掛かってくる欲求は、特定のお店のカレーが食べたい!であった。
問題は、このカレー屋が微妙に近くない距離に存在することである。
近ければ、すぐに行けばいい。逆に遠すぎれば、諦めがつく。
電車と歩きで30分強、という点がなんともモヤモヤした気持ちを醸し出す。
また、誰かが一緒に行きたい、と賛同してくれるのであればこのハードルは低くなるのだろうが、賛同者は家族を含めて誰もいない。
初めての者を誘うにはありふれた、つまらないもので、でも私にはその味が特別なのだ。
味が特別であることには、若い日々に多く食した、つまりは感傷というスパイスが効いていることを認めることもやぶさかではない。
むしろ、そのスパイス以外の特徴を説明することが困難であるし、面倒でもある。
先日、ついに欲求が限界点を越えた、という理由ではなく、時間に余裕ができたときにこのカレー屋を思い出して行ってみた。
勤務時間の合間を縫い、暑い盛りに移動する。
人気の少ないオフィス街を歩いていくと目的の店舗が見えてくる。
実際には地下にあるお店なので、看板が見えてくる。
ランチタイムとは微妙にずらしたものの、階段を下りると数人、並んでいる。
回転が早いお店なので、それほどまたされずに席に通される。
勝手知ったる、ではなく、メニューが見つからなかったので、変わっていないといいなあと思いながら注文する。
ライスとカレーが分かれて出てくる、変わらないスタイル。
カレーをライスにスプーン数杯分かけ、具材ものせて、一口、二口食べ始める。
熱い。味云々以前に熱い。
熱さに慣れてくると味が薄いように感じる。
いつだったそうだった、と思い出す。具材を食して、最後に少し大目に残る汁をかけてからがこのカレーの真骨頂。
ひたすらその高みを目指してスプーンを動かす。
無我夢中で食べ終わって、時間を調整してまで来てみてよかった、と深く納得した。
文句なく美味しかった。
滝のような汗は、服にこぼれ落ちたのだけれど、学生時代とは違ってカレーをこぼすことはなく、成長した気持ちにもなれた。
でも、もうこれ以上に美味しいカレーを知っていることにも同時に気づいてしまった。
もう、相当しばらくここに来ることはないのだろう。
また一つ、自分の欲求が解消されてしまったことに軽い寂しさを覚えながら、上司への遅くなった言い訳を考え職場へ戻った。
出来事については断片的な記憶しかないが、この匂いだけはよく覚えている。
いや、日差しだって、暑さだって、空の青さだって、当時と何も変わっていない。
昨日のことのように鮮明に、でも何十年かぶりに思い出した。
他の子供たちが我先に駆け込んでいくのを見ながら、私と入り口を交互に見やる子供たち。
繋いだ手が、汗でぬれているせいもあって、心もとないが、大きくうなづいて手を離してあげる。
びっくりして、喜びを溢れさせ、走り出す子供たち。
数十年前の私も同じだった。
母が手を離し、一呼吸置いて走りだしたのだった。
弟と手を繋ぐよう、その手を離さないよう言われ、繋いだ手に力を込めた。
まだ幼かったせいもあるのだろう、足の遅い弟に少し苛ついた。
入り口の手前で弟が転び、母の声が聞こえると、私は弟が泣き出すのではないか、と緊張した。
あんなに泣き虫だった、弟がすぐに立ち上がり私を見た。そしてまた走り出した。
中は薄暗く、涼しかった。
私たちに慎重さのかけらはなく、ずんずん進んでいった。
進んでも進んでも、同じ茎が見えていたけれど、一本ずつ色が違って見えるのがきれいだった。
触ってみるとひんやりとしていたが、生きていることが実感された。普段触っている木や壁とは何かが違っていた。
分かれ道で分岐したときだ、彼に出会ったのは。
私と同じ位の歳に見えたその男の子は地面に腹ばっていた。踏んでしまって、ごめんなさい、と呟くと、
痛がるそぶりも見せずに、これを見て、と顔の先の茎の壁を指差した。
シャツと短パンが汚れて、お母さんに怒られないのかな、と思いながら頭の方に回り、覗き込んでみると壁の中に猫がいた。
茶色い、丸い目をした猫だった。
弟に見える場所を譲ると、弟は猫だ!と叫び、その声で猫は消えてしまった。
私は気まずい思いで彼を見やったが彼はうれしそうに立ち上がった。
そして、迷ってるの?一緒に出口を目指そうか?と言ったのだった。
迷路の中をさまよっている状態を迷っていると答えるべきか、一瞬悩んだものの、彼の優しい声をもっと聞いていたくて、一緒に歩くことを許した。
子供たちが迷路から戻ってくる時間、ゆっくりとあの日のことを、できる限り詳細に思い出そうとしてみた。
何もすることはなかったし、何をしたってあの日に戻ることはないのだから。
不意に、昨日の夜、ここに来ることを話したら、北海道に行けばもっと大きなひまわり畑があるみたいだよ、と夫が答える声が耳に甦った。
上昇志向の強い、あの夫らしい言葉だと改めて思う。
でも、私には、この時間が、この空気が、この思考が、例えようもないほど好きなのだ。
二人の子供たちが将来、この場所に来るのかどうかは分からない。こんな気持ちになるのかどうかも分からない。
でも、人生を立ち止まって振り返って元気になる、こんな時間を使えるようであったほしいと思う。
きっと、空は青いし、ひまわりは咲いているのだから。
西東京市 「ひまわりプロジェクト DE OIL 2012」
http://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/dekigoto/himawari_meiro_12.html