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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
年始の挨拶をさばくために、役員さんが特定の日に会議室で待機している会社があり
ます。
年始の挨拶に行きたい人は日にちと時間を予約しておきます。
当日は会議室へ通され、役員さんと順番に一言二言挨拶して帰る、というものです。
顔を出さない不義理を避け、役員さんのスケジュールが取れないという事態を避け、
何より長話に付き合わなくても済む、経済界の生んだ英知と言えるでしょう。うん、
誰を褒めようとしているのだか。

流れの中の、一言二言挨拶して、というところで握手したがる役員さんがたまに、ど
ころか結構います。
これがですね、微妙に困るわけです。
おじさんの手なんて握りたくない!ということではありません。
こちらの手が冷たいのです。

年始の挨拶は1月です。当然、外は寒いです。身体は冷えております。
会社を出て歩いてから電車に乗り、目的地について電車を降り歩いて相手の会社に向
かう。
電車移動の時間が短いから、かもしれませんし、私が冷え性過ぎるのかもしれませ
ん。
会社の受付では、来客を待たせないように、専用エレベーターを用意して、ビルに
入ってきたお客さんをスムーズに役員の待つ会議室に通すようになっています。
ということは、冷えた身体のまま役員さんと握手することになるわけです。
これが申し訳なくて、まあ困るわけです。

役員さんの方は暖房の効いた部屋で握手して挨拶しているわけですからポッカポカで
す。
従って、余計に申し訳なさを感じてしまうわけです。

解決策としては、厚着をして手袋をして、とにかく防寒をしっかりしていく、という
ことになるのですが、
ですが、毎年そうはせずに冷たい手で握手してしまうことには理由があります。
それは、その厚着やら手袋は挨拶の間、自分で持っていなければならない、というこ
とです。
これがまためんどくさい。
だからどうしても薄手のコートになり、邪魔になる手袋は置いていくわけです。

で考えたのですが、クロークがあれば、便利です。
コートに限らないのですが、1日に数件回る営業マンの年末年始の挨拶はカレンダー
のような贈り物を渡す用に持っていたり、取引先から受け取って持っていたりしま
す。
従って、会社の受付にクロークがあることはとても利便性が高いと思われるのです。

実際には会社の受付にクロークがあるケースは、どんな大手企業の本社であっても、
私は見たことがありません(私が知らないだけ、という可能性は否定しません)。
何故ないのか。
来訪者が元々クロークがない前提で動いていること(打ち合わせの場まで荷物を自分
で持っていくことが常識となっていること)から、用意しなくても困らない、という
のが一番でしょうか。
設置しようとすると荷物の置き場所もさることながら、受付の人数を増やすなど、人
件費がかかることも懸念材料です。
何より、とっても大事なお客様は車で来られる、つまりクロークを利用する担当者は
会社にとってそれほど大事な相手ではないということもあります。だからそこに費用
はかけられない、と。

ちなみに、だったらコインロッカーを使えばいいんじゃない!と思いますが、コイン
ロッカーの料金は1時間の打ち合わせで利用するにはやや高く、また会社の経費では
利用できないことが多いです。
全国のコインロッカーの場所、一部のコインロッカー(新宿や池袋等の繁華街)につ
いてはリアルタイムの空き状況が確認できる便利なサービスがあります。
コインロッカーナビ(http://www.coinlocker-navi.com/
こういうサービスって、最新の情報ではない可能性がある点に注意が必要なんですよ
ね。
また、最新の情報(本当にあるの?今すぐなら空いているの?普段どれくらい空いて
いるの?)が分かると有難く、その辺はSNS(Twitterとか)と連携すればどうにかな
りそうな気がします(情報提供者への謝礼については、よく思うようにマイクロ決済
の仕組みがあればなーと)。
連携って、このサービスでは駅名で検索できるようになっているのですが、検索した
瞬間にTwitterの直近情報を合わせて検索してくれ、問い合わせまでしてくれる、よ
うな仕組みを想定しています。

会社の受付がクロークを併設してくれる方法については、引き続き考えてみようかな
と思いつつ、今年も冷たい手で握手をしたのでした。
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友達と会う予定が急に中止になった、とか、自分は元気なのに学級閉鎖で休みになっ
た、とか、そんな場面を想像してほしい。
時間がぽっかりと(例えば丸一日)、空いた時に何をしたいか。

溜まっている用事を片づける、とか。
普段は忙しくできない事柄にじっくり取り組んでみる、とか。
ボーっとして過ごす、とか。

私はできることなら、美術館に行きたいと思う。
と言うと、美術やアートに興味があるんですねと返される。
知らない人が相手だと、まあそういうイメージを持ってもらっていいか、と思って、
笑ってごまかすのだが、正直、展示してあるものにほとんど関心がない。

絶望的に絵が下手なので、自分で描くことは落書きですら、まずありえないし、絵の
具をぬったことは中学校卒業以来、一度もない。
画家の名前だって、ピカソなら知ってるぜ♪と胸を張る程度である(逆に他の画家な
んかまったく知らない)。
どんな絵を見ても、その絵にどんな価値があるのか、さっぱり分からない。
アートなんて自分の好きなものを、好きなように見ればいいんだよ、という意見もあ
るが、そもそも「好きなもの」と言われても、と思う。

では、そんな私が美術館に赴く理由は何か。

美術館に到着して、最初にすることは、どんな人が来ているのか、周りをよく見てみ
ることだ。
圧倒的に、年配の方、それも女性が多い。
単独で来館する人は少なく、数人連れ立って、が多い。
この人たちはどんな繋がりなんだろう、普段の生活の中で絵を見たり、描いたり、語
り合ったりするのだろうか、そんなことを想像する。

実際に絵画を見始めると、年代や背景の説明にざっと目を通す。
その時代、誰が、どんな時に、この絵を眺めていたのだろうか。
やはり書いている画家にはあまり関心がない。
テレビもインターネットもない時代(が人類の歴史のほとんどであり)この絵はどの
ように楽しまれたのだろうか。
そんな、描かれた後の利用されている場面を想像する。
まあ、想像というほど細部が分からないので、頭の片隅に置きながら、見ていく。

美術館は静かな時間が流れており、他人がいることを意識から消すことができる。
絵に集中できる環境とも言えるが、思考が制約なく広がっていくことを実感できる。
言い換えると、あれやこれやと余計なことを考え始める。

その余計なこと、その中身こそが、今の自分にとって一番大事な問題、なのである。
つまり、自分が抱えている、一番の(と自分で思っている)問題を炙り出せること、
それが私が美術館に足を向ける意味である。

そんな過ごし方をした一日は、記憶に残らない。
どんな絵を見たのかも覚えていないし(一生懸命見たところで覚えているわけではな
いが)、そんな一日があったことすら、記憶から漏れてしまう。
ぼっかりと空いた一日は、こうしてぽっかりと空いたまま、消費されることになる。
これを無駄な一日だと思うかどうかは人によるのだろうが、空虚な一日であることは
間違いない。

同じようなことは、クラシックのコンサートに行っても体験することができる。
私にはクラシックの良さも分からないが、考え事をするにはぴったりな場所であるよ
うに思える。
クラシックの問題は、途中で席を立てないことと、座っているので寝てしまう危険性
が高いことである。
そのため、立ち席で出入り自由なクラシックコンサートが開催されれば、私のような
ファン(?)のニーズには合致している。

ところで、目下、私の関心は、どうやって美術館に行く時間を作るか。
忙しくていけないのではなく、忙しくなくて、毎日行けてしまいそうなのである。
これではぼっかりと空いた一日ではなく、美術館に行くには適さなそうなのだ。

そんなわけで、美術館に行くより空虚な毎日を過ごしているような気がしないだろ
か。
そうさ、あんた、間違いないさ。

子供が、なんだかお腹が気持ち悪いと言い始め、食欲は落ちるし、ウンチは出ないし、病院に行ってもまあまあって言われるし、様子を見ていたらある夜、突然吐き戻した。

しかも、一晩に五、六回。

吐くとすっきりするのだろう、普段なら夜中に起きると不機嫌だったり、喚いたりするところ、笑顔で着替え(吐き出したもので服が汚れてしまうので)もさせてくれる。

脱水が心配だからと買い置いてあったポカリスエットを与えると、美味しさに感激している。

 

両親が汚れ物の選択にてんやわんやとなっているせいもあり、食欲がないだろうという配慮もあり、食事にゼリーを与えれば喜んで食べてはお代わりをねだり、病院で処方された薬は甘いのだろう、お代わりをねだる。

結果的に普段より食べているのではないか、少なくともカロリー摂取で勝っているのではないか、と心配される。

吐き気は一晩で治まり、便も水から柔らかくなるまで丸一日、本人の食欲、肉やら揚げ物を食べたいやらがすっかり戻って安心した。

病院でも診察された通り、ウイルスが原因の胃腸炎だったのであろう、無事に沈下したことにホッとしていた。

その矢先である、父親が発症したのは。

 

子供の病気も面倒だが、大人の病気も面倒である。

子供の場合には、何が悪いのか、どう気持ち悪いのか、本人に説明ができずやきもきするとか、体調が不良なせいで起こるあれやこれや(吐いたものの着いた洋服の洗濯なども含め)を全て親がやらねばならないという大変さがある。

これに対して、大人の場合には、自分の身の回りのことはすべて自分でできる一方で、感染力が強く、せっかく治った子供へまだ病気をうつしてしまう心配がある。また、自分の症状を説明できる点では素晴らしいのだが、説明する必要のない愚痴や弱音まで口にすることがうっとおしい。

 

で、まあ子供と同じく、数回吐いて、その後数日は下痢に悩んでいた。

体調が戻るまでの間、固形物が食べられず、大好きなカフェインを摂取することもできず、健康的な生活が維持されたというべきであろう。

数日、水だけで過ごすことで、腸内にほとんど何も残っていないことを実感することができ、それはそれで健康になった幻想に一役買う。

 

体調を崩しているととくにやることもなく、物思いにふけっている時間が長くなるが、ふと思い出したのは、今年の頭にも、同じように体調を崩して、モノが食べられなくなっていたことだった。

あれは酒の飲みすぎが原因だったのだろうか、数日、水だけで過ごしたことだけを覚えている。

そして、その際、腸内環境を整えるためには必要なのだ、と母親(妻)から説得され父親(夫)は毎朝のヨーグルト摂取を習慣として強要され、今日に至っている。

この習慣は、出てきたものを食べるだけ、だったため父親の生活習慣に非常に組み込みやすく、母親が元々食していたヨーグルトを一部分け与えるだけ、だったため母親に用意の手間もかからず、お互いに好評を博している。

一方で、ビオフェルミンを飲んだ方が、それも習慣として飲み続けた方が良いのではないか、という提案も母親からなされ、これも父親は異論なく受け入れたのであるが、飲んでいる最中にもたびたび下痢に襲われたこと(父親は年中下痢にモテ期なのである)、誰が購入し、父親に提供するのか、が不明確だったことから、いつの間にか沙汰やみとなっている。

 

そういう、過去の経緯をたどるためにも、毎日日記を記すことは重要なのではないか、と思う。

子供のころ、一日一善とは何とも簡単なことだと思っていた。

たった一つ、いいことをすればいいのか、と。

 

大人になっても、やはり同じように思っている。

一日に一ついいことをするなんて、簡単なことだと。

 

Googleで「一日一善」を検索すると、一善って何をすればいいんだろう?みたいなことがたくさん出てきてびっくりする。

家から一歩出れば、善行なんて腐るほどできる。

歩いているときに、他人に道を譲るとか。

エレベーターで後から来る人のために扉を開けておくとか。

 

もちろん、一善をどう考えるかによっては、いくらでも難しくなりうる。

道を譲るだけで一善ではないなら、寄付をすれば一善なのか。

お金を渡すだけで一善ではないなら、ボランティアをすれば一善なのか。

等など、行き着くところは、自分の生活のどれだけを削って、善行に充てなければならないのか、充てるべきなのか、という話である。

 

ただ、大人になった、なってから相当の時間が経っている私は、本日の一善をどうやってこなそうか、を考えるよりもむしろ、どうやって悪行せずに一日を過ごせばいいのか、に頭を悩ませている。

気を使いながら生きている、が正確だろうか。

「悪行」というのは、暴力をふるったり、お金を盗んだり、自尊心を傷つける言葉を使ったり、に限られない。

善行が他人の喜ぶこと、を意味するのであれば、悪行は他人の嫌がること、を意味するのではないか。

 

私が行った本日の悪行とは例えば、以下のようなことである。

・上司の振ってきた、今日は大学の同級生とランチに行くんだよ、というどうでもいい話に心ここにない返事をしてしまった

・妻がしまい忘れていた指輪を目立つところに移動させ、気づかないふりをすることができなかった

・レジを打ち間違えた店員さんからレシートご入り用ですか、と聞かれて、はいと応えて受け取ってしまった

 

いいことをすれば悪いことは相殺されるのか、は対象が同じ人間であっても、力関係によって答えが変わる難問で、別の人間であれば100%殺されないと考えるべきであろう。

と言うわけで、善行を積むような余裕はなく、悪行を積まないように気を付け、それでも避けられない事柄に平身低頭、匍匐前進でやり過ごしているのである。

 

さて、善行に話を戻すと、テクノロジーの進化とともに、善行の方法も多様になってきている。

これは、従来は、概念は知っていても、実際にどうやったらいいのかその方法が分からないような善行も、ネットが普及し、情報収集が手軽になったことで、より参加しやすくなった一面がある。

ボランティア、というのは私が知る限り、従来は、誰かに声をかけてもらって参加するものであった。

お隣の奥さんが亡くなって子供を抱えた旦那さんが葬式を仕切るのは大変そうだから炊き出しや受付を手伝ってあげよう、といったようなものである。

いや、暗い例えで申し訳ない。

これが、東日本の震災から災害ボランティアが一般に認知されるようになり、また、一般のイベントでもボランティアの参加を募っているものが多くみられるようになってきている。

このようなボランティアに参加する人が増えてきているのは、いい人が世の中(日本)に増えたから、というよりも参加の方法が分かりやすく、参加しやすくなった、ということが大きい。

あるいは、養子縁組についても、従来は話として制度があることは知っていても、実際にどう動きだしたらいいのか分からなかったものが、最近ではネットで調べれば比較的簡単に、入口にたどり着くことができるようになっている。

 

テクノロジーの発展が、従来から行われていた善行の、方法の多様化をもたらした面もある。

その代表が寄付、であろう。

 

寄付は昔から誰でも募金箱にお金を入れるだけで行えるものであったが、現在では、クラウドファンディングから、料金の一部が自動的に寄付されるものまで、様々なサービスが提供されている。

サービスの多様化は、一つには、寄付を受ける対象の多様化に繋がっている。

記憶ベースで恐縮であるが、幼いころ、寄付と言えば、恵まれない人に愛の手を、というその恵まれない人も、明日の食糧がない人に、みたいな、本当に困った人向けのものである、という認識だったと思う。

もちろん赤十字だとか、あるいは神社の改修なんかに寄付する人もいた(そういうことがあるのは知っていた)が、それはお金持ちがやること、みたいな感覚だった。

それが、震災への寄付や、世界の貧困者への寄付はもちろんまだまだあるものの、もっと小さな救いの手を求めている人たち、小さなは私の価値判断ではなく、少額の救いを求めてる人たちでも、寄付を受けとることができるようになってきている。

 

また、最近の寄付は、寄付を受けた側が寄付を受けた後の状況について、報告することが増えているのも特徴であると思う。

詐欺を無くすという意味では良い取組なのかもしれないが、自分が寄付したお金を使われ方に関心を持つ人が増えてきた、と言うことであれば、世知がないなとも思う。

 

何はともあれ、12月は「Giving December」寄付月間である。

以下のサイトは、特定団体への寄付を求めるものではなく、年末に寄付について考えてみてほしい、というサイトである。

http://giving12.jp/

年末に考えてることがまた一つ増えてしまうが、楽しいことで頭を悩ますのは喜ばしい。

どうやって他人のしっぽを踏まないようにするか気を付けるよりははるかに楽しいのではないか。

バレーボール男子日本代表の監督に内定している中垣内裕一氏が交通事故を起こして謝罪会見を行った。

中垣内氏が人身事故 はねられた警備員が重傷 業務中社用車で

 

交通整理の警備員を轢いたこと、バレーボール協会が代表監督に内定したことを取り消す可能性もあることを報じている。

事故自体が痛ましいことは言うまでもない。

ただ、交通事故を起こしたから、と言う理由だけで、組織(この場合はバレーボール協会)の処分が行われることには違和感がある。

事故は誰にでも起こりうるし、適切な処理がなされるのであれば(刑事法上の処罰や、民事法上の損害賠償、法的な論点ではない謝罪等を想定している)それ以上の処分を組織から受ける必要は無いように思える。

日本代表の監督はタレントと同様、イメージも大切なのかもしれないが、その意味では、不倫騒動などでもともとイメージのよくない人選である。

中垣内氏本人が猛省する、と述べている点も考えると、運転者側に重大な過失(居眠り等など)があったのかもしれない。

詳細が分からない以上、なんともすっかりしない話である。

 

いずれにせよ、できるだけのことをして、交通事故で人を轢くことが無いようにしたい。
そして、ひくこと、なのだが、、、

私は風邪をひくことがある、辛いのでひきたくはない。

私は辞書を引くことができる、でもめんどくさくてあまりやりたくはない。

私は、自分でコーヒー豆を挽くことはない、そんな生活には憧れている。

私は恐怖に立ち向かうよりも退くことが多い、チキンである。

私は異性の気を惹く可能性がある(生きている以上)、大いに歓迎したいところであるが、これまでに片手で足りるほどの観測結果しか残してこれていない。

 

ひけないことばかりである。

そして、私は楽器が弾けない。

 

楽器が弾けない、のは、場を盛り上げられない、のと同じで、本来はできるできないと言える事柄ではない。

飲み会で輪の中心となってトークを展開したことは生涯で一度もなかった、としても、くしゃみで場を和ませた、ようなことは誰にだって経験があるはずだ。

上手下手はあっても、できない、と言うことはありえない。

その上手下手と言う技術も明確に測れるものではない。

 

楽器も同様で、音を出すくらいは誰にでもできるし、その音の良し悪しなんて、聞き手の数だけ判断があるはずだ。

楽譜をさらえるか、を技術レベルととらえるべきではない。それは分かりやすい技術の見分け方の一部に過ぎないからだ。

 

では、なぜ、私は自分が楽器の弾けない人間だと思っているのか。

それは、ピアノで猫ふんじゃったを弾いても、何も楽しくないからだ。

タンバリンを叩くと、気分が高揚して踊りだしたくなることがないからだ。

その結果、どうしても断れなくて演奏に参加するとき、以外に楽器を手にしないのである。余計に楽器が楽しくなくなる。

だから、楽器が弾けない、と言わざるを得ないのだ。

 

こういう話をすると、練習して上手くなると楽しくなってくるよ!と反応されることがある。

楽器に限らずスポーツでもそう言われることが多い。

私も全面的に賛成する。

練習することで楽しくなることがある、それも結構ある。

その上で、その楽しさって楽器を弾く楽しさ、自分で音を生み出す楽しさ、他人の音と調和させる楽しさ、とは違うんじゃないかと思う。

そのような楽しさに目覚めることもあるのだろうが、多くは、技術の向上する楽しさ、即ち達成感を得られる、のではないだろうか。

達成感を得るというのは、純粋に音をだすことが楽しいとは遥かに遠く、極論すれば反対にあるもののような気がしてならない。

 

この仮説の当否はさておき、達成感ではない楽しさを感じられるものをここ最近、探っている。

読書であれば、結末が気になり、ページをめくる手を止められない本よりも、読んでいること自体が楽しく終わってしまうのが残念な本に出会いたい。

 

そういえば、私にも一つ、ひけるものが見つかった。

幕を引く。

では。

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