本と、ブログやその他インターネットで閲覧できる文章との違いって何だろう、とつらつらと考えていた。
電子書籍の端末発売にあわせて盛り上がった(かのように見えた)議論であるが、議論の俎上に載せられた、紙の発光とモニター画面の発光が読み手に別の認識を惹起させるのではないか、つまり、紙の本を読むのと、電子モニタ上で読むのと、読み終わった後に何を考えるか、どんな感想を持つか、どれくらい記憶されるか、が異なるのではないかという点に、個人的には関心がない(しかも比較した結果、紙が優れているんだよ、という論調には何も言う気がしない)。
だって、考えてみてほしいのだが、今からウン十年前、孫の顔でも、恋人の顔でもいいんだけど、を見るのに、写真や画像の荒いビデオしかなかったのに、今じゃあ携帯で写メ撮って送って、保存して、ニヤニヤしているじゃないですか、していませんか、だったらしてみませんか?
これが紙に印刷された写真じゃないと、とか、紙の手触りが、なんて言っている人、ほとんどみたことない(全くない、わけではないんだけど)。もちろん、名画を写真じゃなくて実物で見ると違うとか、芸能人を普段テレビで見ていても実際に会ってみたらオーラが違ったとか、そういうことはあるものの、って話がだいぶずれてきた。
翻って、では紙の本でも、ネットの情報でも全く同じなのか、と言われれば、それはやっぱり違うと思う。その違いは何かと言えば、書き手と自分との間に、誰かが一度読んで、書き手が読み手の意見を聞いて再考しているかどうか、なのではないか。
ここで申し上げたいのは、文章の質が上がるとか、そういうことではない。
他人が読んで、ある程度理解できるものであるかどうか、だと思う。
体験談を細切れにして投稿する掲示板をご覧になったことがあればより理解されやすいと思うのだが、あの場所では文章の良し悪しよりもむしろ、純粋に体験内容の面白さを判断できているように思える。
その理由は、書いてある内容が「他人」から見て理解できない場合には、質問が挟まり、書き手がそれに返答して書き足すことで不足情報が補足されるからである。
ネット上に氾濫する文章が全て他人が理解できないと困る、なんてことを言うつもりは全くないのだが、読みたい何かが、自分の理解できる範囲にあるのかどうかのフィルタリングはやっぱりほしいなあと思う。
まあ、読めない(理解できない)ものは読者として自分が選考に漏れていると考えればいいのだが。
話がまたぶれるが、ネットで読める文章が増えてきて、恐らくは読みきれないほど大量の文章がある中で、文章を読む機会というは、個人的には着実に増えてきている、わけではない。私自身はもともと活字中毒気味(ホンモノの中毒者には足元にも及ばない)くらいにしか文章を読まないのだが、正直本を読んでいた時間がネットを見る時間に変わっているだけで、あまり変化がない。
では、今の子供たちなり、日本人が平均で文字を追いかける時間は増えているのだろうか。ちゃんと統計を探したわけではない(適当にも探していない)だが、恐らく増えているような気がする。何故なら、ネットで流行たるものの大半がまだ文章であり(画像や音楽ではなく)それについて行きたい人も増えているように思うから。
仮にネットで文章を読む時間が増えているとして、それは物事の理解力を向上させることに役立っているのだろうか。
これまた個人的にはそうは思えないのだが、こちらは何ら確証がない。
以上の文章は、私自身、知り合いではない他人に理解してもらえるような文章が書きたいと思っているのですが、まだまだです、というざんげです。
繰り返しになりますが、個人の感想や感情を背景なく書かれているものが良くない、ということを全く意図していません。私向きじゃなくて少し悲しくなる(もっと理解しあえるかもしれないのに)という程度です。