東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
出掛けに思っていた以上に肌寒く、羽織モノを選んでいるうちに出発が遅くなり、雨のせいかそれとも三連休のせいか、苦労してとおり抜けた抜け道で回避したはずの有名な渋滞のメッカ以外の場所で渋滞にはまる。カーナビが目標時間のぎりぎり前後の時間に到着することを告げ続ける。前に後ろに、遅刻をあきらめるかがんばるか、合わせて私の心も揺れ動く。
祖母が99回目の誕生日を迎え、普段は集まることもない親戚が一堂に会した。
私にとっては妻の祖母のこととて、家族が大人数で集まることは、特に話題のない時間を過ごすことになることが目に見えていたとしても、無条件に喜ばしい。
それにしても、祖母から、その子供達が二人、片方は離婚し、片方は夫婦そろっての参加。二人の子供達はそれぞれ子をなし、それぞれ結婚している。うち二組は、それぞれ二人の子供をもうけて、計14人。
そもそもおばあちゃん、と呼ばれているものの、その言葉の本来の意味であるところの祖母、である人は私を含めて半分以下の6名、という事実に思い至る。何気なく、子供におばあちゃんってさ、と話しかけようものなら、おばあちゃんって誰のこと?と至極もっともな突っ込みをくらう。
参集した顔ぶれを見ても、職業、住まい、嗜好から、何一つ一致しないという点には苦笑せざるを得ない。といっても、縦横、どんな分類をとっても血の繋がっていない私が、誰より分類のはずれに位置するのではあるが。
祖母の好み、と聞いている和食の会席を皆で食する。
耳の遠い祖母は、他人の話を聞いているのかいないのか、一心不乱といも形容すべき状態で食べ続ける。長生き、健康の秘訣は、という疑問は多けれど、何よりもまずは食べること、なんだなあ、と思う。
順番に祖母に話掛けると、満面の笑顔で答えてくれる。息が抜け、声とともに空気の抜ける音が痛々しい。
興が乗ってくれば話続ける、他人からの指摘(危ないからここを持ってください)には不服を示す、頑固な老人そのものではあるが、自分の意思を表示できることも生きている証の一つなのだろうと思えばいとおしい。
例えば、自分の見た目が、歳相当よりも若く見える、ことにこちらの想像を絶するようなこだわりがある。
私には正直99歳と、90歳の人間の違いが分からないし、違うことに何か意味があるかすら分からない。それでも当人にとっては、自分の年齢が(赤の)他人に知られることへの譲れない羞恥があり、実年齢より若く見えることへの強烈な渇望がある。
正直自分が輪の中に、しっかり居られたのかどうか分からなかったものの、こんな集まりに参加できて良かった。渋滞にはまったことすら、祖母が自分の家族にこうして囲まれるまでの日々を思えば、ささやかながら追体験ができたのかもしれず、祖母が、私のようなものを含めて集まることを喜んでくれてよかった。参加している全ての人が、自分にもいつかこんな自分のために家族が集まり、囲まれる日が来るかもしれないという希望を持てて本当に良かった。
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