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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

きっかけはワインである。

まずはじめに断っておきたいのだが、私にはワインの美味しさが分からない。

飲みやすい、飲みにくいと言うのはあっても、総じて美味しくはない。

不味い、飲めない、ではなく、美味しくはない。

水とワインが並んでいたら、まず水を選ぶ。

水の方が安いじゃん、というのも理由の一つであるため、双方無料なら、せっかくだし、とワインに手を伸ばしそうな気がする。

双方有料なら水を選ぶ。

そんな私は当然のことながら、ワインを嗜む趣味はなく、誰かに連れられて行ったお店に用意されたワインを付合いで口にする程度である。

口づけまでの関係、というフレーズが浮かんだが、特に広がりはない。

さて、ワインを嗜む人々も、その嗜み方は多様であり、ある者はその味、香りに魅せられ、ワインを体内に流し込むのことを至福とする。

またある者は、その無限に広がる背景知識に魅せられ、頼まれずとも持てる知識を語りだす。

しかし、ここで語りたいのは、ワインを保有することに魅せられた者の話である。

ワインは、長期貯蔵が可能なパッケージがなされている。

このことは、ワインには多くの種類が存在することに繋がる。

誰が、どこで作ったものか、に加えて、いつ作ったものか、というラベルが増えるのである。

多種多様であることは、それぞれの優劣が生まれることに繋がる。

有名なもの、貴重なもの、普通のもの、怪しいもの、ありふれたもの、等々。

そして優劣は金銭的な価値へと紐づいていくのである。

ワインは言うまでもなく飲み物である。

しかし、飲むこと以外の価値を有している。

そのため、ワインを保有するものは、それを飲むためだけに入手したとは限らない。

そもそも貴重なワインであれば、将来の値上がりを狙って、投資として入手することもある。

そのようなまったく飲むつもりがないわけでなくても、今すぐは飲まない、という選択がある。

貴重なワインは持っていること自体がステータス、あるいは自慢の種となりうるのだ。

では、いつかは飲むつもりであるものの、それは今すぐではないというワインを、いつ飲むのか、これが本稿のテーマである。

貴重なワインであればあるほど、いつ飲むのか?は悩ましい。

そして、多くの者は、このような結論に至る。

曰く、このワインを飲むのにふさわしい日が来たら飲もう、と。

そりゃあそうだよなと思う一方で、全然結論になっていないようにも思う。

とりあえず先延ばししておきました、感じが半端ない。

で、この問題を考える前に、一つ、自分に問いかけてみた方がいいのではないか、と思うことがある。

とっても美味しいものを食するに当たり、あなたは、一人で味わいたいタイプなのか、誰かと一緒に味わいたいタイプなのか、である。

わたしは前者の、一人で味わいたいタイプ、である。

これ、誰にも渡さずに独り占めしたい、ということでは全くない。

本当に美味しいものは、誰にも気兼ねすることなく、一人で、一人きりになって食べたいのだ。

出来ることなら、自分の部屋にこもりたい。

お店で食べるのであれば、お店の人とのやり取りが発生するようなカウンター(割烹とか、Barとか)は避けたい。

こういう人間にとって、ワインを開けるタイミングは、正直いつでもいい。

何かのきっかけるとなる出来事なんて必要ないのだ。

ただ、一人で過ごせる時間、その時間が確保できたときこそが、飲み時、ということになる。

一方で、誰かと一緒に味わいたいタイプ、の人もいる。

同じモノを食べて、共感してもらうことが幸福に感じる、のだろうと想像する。

このような人は、イベント(あるいはタイミング)がとても重要なんだと言うことが多い。

しかし、それはきっと勘違いだ。

重要なのはイベントではなく、ストーリーではないだろうか。

結婚する、子供ができる、家を買う、退職する、なんだっていいのだが、ワインを飲むのにふさわしいと思う日は、ストーリー性を帯びている。

そうであれば、イベントをストーリーと言い換えただけのように思われるかもしれない。

もちろん、ストーリーは単なる言い換えではない。

ストーリーはタイミングだけが語るものではないからだ。

結婚する、そのお祝いでみんなが集まる、だからとっておきのワインを開けて、皆で味わう。

これがイベントに関わるストーリーだ。

イベントだけが語るわけでない、というのは、どのようなお店をどういう経緯と理由で選んだのか、この場にふさわしいワインはどのように入手され、どこに保管されてきたのか、などなどストーリーがより重複して豊かになることを意味している

だから、イベントではないのだ。

ストーリーが練りあがった時、それがワインを飲むべきタイミングとなるはずだ。

ところで、考えてみれば、美味しいもの、に限らず、楽しい体験、うれしい体験、わたしはその全てを一人で味わいたい。

もっと言えば、悲しい気持ちだって、やりきれない気持ちだって、人でかみしめたい。

共感を必要としていない、というよりも、居合わせた他人を不愉快にさせないために多くの労力を割かねばならず、煩わしいのだ。

そんな私は不幸な人間なのかな、と思う。

暗い気持ちになったところで、ワインでも飲んで、忘れて寝よう。

ワインは好きではないけれど。

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シルバー民主主義という言葉を聞くと、私は、なんだかほっこりした気持ちになる。

のんびりしたイメージがあるからではない。

そもそも、シルバー世代(高齢者)ってあんまりのんびりしていない、どころか若者よりもせかせかしている方も多い。

■シルバー民主主義とは何か

日本の人口構成において、高齢者の占める割合は年々増加している。

当然のことながら、有権者における高齢者の占める割合も、同じように年々増加している。

ここまでは事実である。そして、この傾向は、近い将来は変わらないと予測されており、これも異論ない。

高齢者の割合が増えた結果、高齢者に望まれる政策を主張することで、より選挙に当選しやすくなる。

これもまあ理解できる。

問題はここからだ。

「高齢者に望まれる政策」は、高齢者以外(以下では若者という)には望まれない政策であるため、日本では若者に必要な政策が実行されない、これをシルバー民主主義という、らしい。

言い換えると、シルバー民主主義では、高齢者が優遇されがちである、という主張である。

本当だろうか。

高齢者に望まれる政策と、若者が望む政策が、必ずしも相反するものではないのではないか。

■シルバー民主主義では高齢者が優遇されるのか

例えば、北朝鮮の軍事的脅威に対して、日本としてどう対応していくのか、について、高齢者と若者で利害関係が相反することはないだろう。

加計学園を巡る疑惑に対して、であるとか、自衛隊の日報を巡る問題に対して、であるとかについても、世代の違いでの意見の違いはないはずだ。

もちろん、年代によって意見に偏りがでることはある。

ただ、それは、年代が理由で意見が異なるのではない、と言うことだ。

一方で、明確に世代で意見が分かれる、と言われる事柄もある。

例えば、税金という有限の資源のうち、どの程度の金額を医療費に向けるのか、どの程度を子育て支援に向けるのか、という問題は世代で利害が分かれそうである。

しかしこれも変な議論であるように思える。

何故なら、医療費の問題にしても、子育て支援の問題にしても、その世代の全ての人に関連する議論ではないからだ。

更に加えて、多くの人にとって「家族」が今なお経済活動の基盤となっていることを踏まえると、私は若者だから老人の医療費にはお金を使うべきではない、という意見は、家族(祖父母や父母)が病気になった時、自分の家計を圧迫する要因になるのであるから、あまり多数意見ではないはずだ。

と言うわけで、私は、有権者に占める高齢者が増加することで、高齢者を優遇する政策が実行されているとは思っていない。

個々の政策について、高齢者が優遇されているように思われることはもちろんあるのだが、それは有権者の割合とは関係ないように思える。

■シルバー民主主義は何を意味しているのか

では、シルバー民主主義と言うのは、無視しておけばいい主張なのだろうか。

わたしは、そうは思わない。

政治、というものを歴史的に振り返ってみれば、それは専制君主(いわゆる王様)の、王様による、王様のためのものであった。

そして、王様に群がる人々のうち、権力のあるものから順番に優遇されるようなものであった。

民主主義とは、これを否定した、人民の、人民による、人民のための、を理念とする政治形態である。

形式的に民主主義をうたっていても、実際にはそうなっていない事例なんて世界中で山ほどある。

国内に目を向けたって、地域政治はそうなっている状況がまだまだ多分にある。

ところで、少なくとも民主主義が成立していない状況では、シルバー民主主義は成立しない。

言い換えると、シルバー民主主義について議論されている状況は、民主主義が確立していることを前提にしているのである。

わたしがとりあえずほっこりしてしまうのはこんな望ましい状況に対して、なのである。

そして、シルバー民主主義よりも望ましいのは、ゴールド民主主義なのかなーと思うし、それはちょっと成金みたいだから、シルバーでいいんじゃないかな、と思っている。

イメージとリアルにはずれがある。

日本が観光立国を目指すに当たっては、このずれを解消する必要がある。

解消の方向は大きく二つある。

一つはイメージをリアルに近づけることである。

そしてもう一つは、リアルをイメージに近づけることである。

例えば、日本とは侍と芸者と忍者と不眠不休のサラリーマンがいる国だと思われており、それを目当てにする観光客が世界各国から殺到しているのだが、そのどれも大変貴重であって、実際に目にすることは難しく、私たち日本人でさえ、ほとんど見たことがないはずだ。

イメージをリアルに近づける場合、海外のメディアに日本の現状(サムライなんていない)を宣伝してもらう、入国ゲートで日本では芸者は大金を支払わないとまず出会えないと書かれたパンフレットを頒布する、と言った方法が考えられる。

他方、リアルをイメージに近づけるためには、サムライや忍者を増やせばいい。

この忍者を増やすことがいかに難しいのか、をテレビが取り上げている。

というWebの記事を見た。

https://www.j-cast.com/tv/2017/06/02299643.html

正直、忍者はどうでもよいのであるが、忍者養成スクール「アストアクションスクール」が西東京市にあるとは驚いた。

これ、西東京市は全国屈指の忍者の輩出地域ってことだ。

しゃきしゃき体操やる前に、小学校の授業でも忍者になるための初歩を教えるべきではないだろうか。

なお、アストアクションスクールは体操教室であって、忍者を育てているだけではないので、忍者養成スクールと呼ばれることを、ご本人たちが歓迎しているのかよくわからない。

さて、日本の終戦記念日は、朝鮮半島の終戦記念日と同日でありながら、その内容は180度異なる、考えてみれば当たり前であるが。

その朝鮮半島を巡る緊迫は、とりあえず小休止しているようだ。

直近の騒動は、北朝鮮がグアムに向けて(正確にはグアム近くの海域に)ミサイルを発射することを計画している、と発表したことが契機の一つである。

この問題が、大変不謹慎ながら興味深いのは、北朝鮮からグアムに向けて放たれたミサイルが日本上空を通過するからである。

日本上空をミサイルが通過することには二つの問題がある。

まず、予定した通りの航路でグアムに向かわず、失速して日本に落ちてくる可能性がある。

これに対しては、日本のミサイル防衛システムで対応することになる。

具体的には、空中でミサイルを撃ち落とす、もっと言えば爆発させてしまう。

北朝鮮の発射したミサイルは空中でなくなってしまうのではなく、バラバラになるだけなのでその破片が落ちてくる。

それでも、ミサイルが直撃するよりも被害が少なくなる。

このケースでは、どの時点で日本に落ちてくる可能性が高いと判断して、迎撃するのか、が問題になる。

が、防衛省の判断の話なので、ここでは立ち入らない。

そして、これを前提にもう一つの問題を考えてみたい。

それは、日本上空を無事に通過そうなミサイルは撃ち落とす必要があるのか、ないのか、である。

グアム(アメリカ)からすれば、撃ち落としてしまいたい、であろう。

絶対にグアムに落ちてこない、という確証も信頼もない中、被害が生じる前にできることはしておきたいと思うのは当然だと思う。

アメリカから撃ち落としてほしいと要請を受けた場合、あるいは何もしないでほしいとお願いされなかった場合、を想定してみる。

アメリカの希望に従ってミサイルを迎撃することで同盟国アメリカに感謝される可能性が高い。

一方で、ミサイルを迎撃すると前述の通り、日本に破片が落ちてきて被害が生じる可能性がある。

わたし個人は、どんな要請があろうとも日本に向けられたミサイルあるいはグアム住人に明確な被害の生じる可能性が確認されるミサイルでなければ迎撃すべきではない、と思う。

この意見が国民的な総意ではないことは承知しているし、国民的な総意が得られるよう議論を深めていく必要があるとも思っている。

しかし、今、この瞬間にでもミサイルが発射される可能性がある中で、その議論を深めるよりも先にしなくてはならないことがあると思っている。

それは、この判断を政府に一任することである。

少なくとも事後的に判断を非難されることがないようにしなければならないのではないだろうか。

長期的な議論の方向性としては、日本国民が全員、忍者としての修業をして、ミサイル迎撃で生じた破片を避ける、ということも考えられる。

そのためにも、早く、忍者と言えば、伊賀でも甲賀でもなく、西東京市、というイメージを全国に広めていくべきではないだろうか。

 
今に始まった議論ではありませんが、電話よりメールの方が効率的なコミュニケーション手段でしょ、という意見があります。

例えば、ホリエモンこと堀江さんは、「電話してくる人とは仕事をするな」とまで言い切っています。
http://toyokeizai.net/articles/-/174408

賛否が分かれるところですが、私は賛成する人の真意が(もっと言うと、堀江さんの文章自体の意図するところが)いまいち分かりません。
かかってきた電話に対応することは非効率だ、というのは理解できます。
それを理解しつつも、かかってきた電話に(多くの人が)対応しているのは、電話をかけてきた人との関係を損なえないから、です。

私は堀江さん本人ではないので憶測ですが、堀江さんなら、電話に出ないくらいで損なわれる関係なら、辞めてしまって構わない、ということなのだと思います。
その考え方自体は理解できますし、正直、強く共感もします。
でも、実際にはそんなことができる人は、自分で仕事を選べる人だけです。
まあ、憶測ついでに、堀江さんは、自分で仕事を選べばいいじゃん、と言いそうですが。

フリーランスになるとか、起業するとか、そのような選択肢を選んでない人(つまり勤め人)にとっては、関係ない話、のはずなんですよ。
なので、堀江さんがそのような立場の人に向けて、電話してくる人とは仕事をするな、と言っているなら、そうかな、と思う一方、勤め人が多く読んでいるビジネス誌でそのようなことを言うのはなんでだろう、という思いもします。
同様に、賛成している人が独立した人ならまあそうかな、と思う一方で、勤め人にとっては関係のない話だと思うのです。

もう一つ、堀江さんの記事では、かかってくる電話が非効率だ、という話をしているだけで、自分から電話しない、なんて言っていないことです。
相手に迷惑かもしれないから電話よりメールする、という人がたまにいますが、自分にとってものすごく不効率な配慮です。
つまり、そんな配慮が必要な場面はほとんどないはずです。

メールは電話より手間がかかる、ということの理解の方がよっぽど重要なのではないでしょうか。
何故なら、電話は相手が理解していないことを即時でレスポンスしてもらえますし、その反応に応じて説明を変えることができます。
一方でメールだとそれができません。
そのため、メールでは背景までしっかり文字にして説明する必要があるわけです。

メールのやり取りを会話だと思っている人の中には、会話と同じようにメールする人がいて、それはそれで合理的なのだと思います。
でも、それって一般的ではないと思います。

電話ではなく、メールすることのもう一つの問題は、それが転送される可能性が常に付きまとうということです。
メールの転送は、相手に配慮を期待すべきではありません。
メール本文に転送しないで、といくら書いたところで、あまり意味がありません。
基本的には誰でも転送される可能性がありますし、それを前提に書かざるをえません。
一方で、電話であれば、自分の発言として第三者に展開された場合であっても、言っていないと反論することができるのです。
都議会議員選挙まで1週間を切りましたが、西東京市の情勢についてはよく分かりません。
ネットでちょこちょこ調べている程度の私が何か知っているわけもないのですが。

都議選に限らず、議員さんの情報が少なすぎることは今回も変わっていないと思います。
例えば、候補者の方々のホームページです。
一番困るのは、共産党の中村さんです。
ホームページ自体がない。
ツイッターだけでは、情報量が足りなくはないでしょうか。。。
ちなみに、市議会議員の保谷清子先生がブログで援護射撃してくれているのですが、この辺のリンクも管理したいところではないかと思います。
もったいないです。

次が桐山先生。
こちらはブログがあるのですが、やっぱり情報量が足りないように思います。
いやね、都議会議員になったら何がしたいのか、くらいは書いてほしいのですよ。
それとできたら、市議会議員を辞める理由(残った人たちに任せておけば十分だ、とか)もね。
政党の議員さんとは違うと思うんですよ、桐山先生は。

石毛先生については、ホームページは立派なのですが、誰もが一番知りたいのは、どうして民進党をやめたの?辞めたのに推薦してもらっているの?それって開示しないの?あたりではないでしょうか。
トップページをスクロールすると唐突に出てくる小池都知事礼賛で全てを悟れ、というのは無理があるように思います。

って並べてみると、山田先生のホームページが一番しっかりしていたりするわけです。
ご自分で作成・更新されているわけではないと思うと、やっぱり世の中、知力とか実行力とかよりもカネ、なんでしょうか。
世知がないですね。

ちなみに前回の都議選は青年会議所主催で公開討論会をされたようですが、今回は開催されないみたいで残念です。
前回(2013年)分についても、やったことは分かるのですが、何が語られたのか、は情報がなかったりするんですよね。

都議会議員選挙を巡っては元SPEEDの今井絵里子さんの「批判なき選挙、批判なき政治」が大批判されています。
https://matome.naver.jp/odai/2149821201163800401
これについては、「批判」が許されない若者(?)文化の解説で、鎮静化されたように見えます。
https://anond.hatelabo.jp/20170624022831
おかしな主張、で納得されているというのかな。

しかし、私は、今井さんの言う「批判なき」という内容は、異論を認めない、という意味ではないのではないか、と思っています。

上記はてなの解説で面白いのは、今井さんが、自分の周りのコミュニティでの振る舞いと、社会全体での振る舞いを分けて考えていないのではないか、という点です。
友達同士で集まって、次の旅行はどこに行こう?という相談をするのと、議会で、法案を採択するかどうかを考える、が同じように考えられている、ということです。
私は、この点に同感なのです。

そうすると、批判する、ということは基本的には起こりません。
次の旅行は、海に行こう♪という話をしている際に、批判されることなんてありえないですよね?
海?あんた頭大丈夫?潮に流されて遭難するリスクとか考えてないわけ?しかも、海の中なんて見えないんだから、何がいるかわかんないんだよ?この場から出て行けよ!
なんて言われることはないですよね。
せいぜい、海もいいけど、山も気持ちいいよー、山頂でのおにぎりなんてサイコーだよー、くらいではないでしょうか。

西東京市の都議会議員選挙に話を戻すと、ある意味、今井さんの求める選挙が実現されているのです。
共産の中村さんはちょっと違うような気がしますが。
都議会の方向性ではなく、地元との絆を協調される山田先生、都議会での実績を強調される石毛先生、ご自身のキャリアと都知事の威光をアピールされる桐山先生。
お互いに対する批判、都議会の他の会派への批判、都知事への批判、いずれもありませんね。

批判がないのと同時に、候補者同士のコミュニケーションも行われていないように思えます
選挙でよく使われる表現だと、争点がない、ってことですね。

私としては、都知事の信任投票を都議会議員選挙で行う、ことがそもそも間違えだと思います。
議員さんには、知事のチェック機関して、是々非々でご判断いただきたいわけです。
全て反対/全て賛成、のような態度では困ってしまいます。

というわけで、悩み多き西東京選挙区。
当選のカギを握るのは9,000票あまりを有する公明党、なんてネットニュースもありましたが、誰が当選するのか、と合わせて、得票数がどこまで伸びるのか、にも注目ですね。
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