私は野田首相があまり好きではない。
更に、民主党政権はいくらなんでもまずいのではないかと思っている。個別具体的な政策判断以前の問題で、約束を反故にすることにより言葉に対する信頼を失わせていること、言い換えれば言葉を信頼する態度に価値がないと思わせていること、が許されざることだと思っている。
また、原発の稼動については、判断できていない。原発反対派、賛成派(と簡単に分類してみると)の対立は、現時点で提示されている情報以上の情報の有無を信じるか否かの対立のように思える。どれだけの放射能を浴びると人体に害があるのか、害がないというレポートがあってもそれを信じられるのか(隠された情報がないのか)。
そんな人である私が、野田首相が所信表明演説で述べたことについて思うのは、まあ、まともだなあ、ということです。
原文が見つからなかったので、こちらの記事で引用されたものを元にしています。
http://blogos.com/article/41163/?axis=t:6154&p=1
私は、この記事について、基本的に賛成です。
つまり、野田首相は「東日本大震災レベルの地震までは耐えられるが、それ以上の地震・災害が起こったら安全ではない」という可能性と、「原発を停止して生活・命に影響がでる」可能性を比べて、原発停止による影響を重視する判断をした、ということだと思います。
そして、この所信表明は、素直にこう読めます。私はリンク先の記事は、ご自分の結論を導くのみ都合よく誤解されていたり、こちらの方がよほど倫理的にどうなのかと思います。
情報の乏しい私には、この判断はありうる妥当な判断の一つだと思います。
少なくとも、明確に間違っているとか、間違っている可能性が濃厚だとは思われないです(そう納得するだけの根拠を持ち合わせていないです)。
また、これまでに懸念として伝えられていることを十分に考慮して判断されていると思います。
語るべきは、この判断に賛成か反対かではなく、この判断を前提にどんな手当てをしないといけないのか(原発近隣に住み、原発稼動に恐怖を覚える人に移住等の手当てをするとか)ではないかと思います。
最後になりましたが、森てるお先生の拡声器第50号に「議場に日の丸、その後」が掲載されています。
事実関係が先生の書かれたとおりであるならば(予算がつかなくて掲揚できないのであれば)、議員報酬を減らして、そのお金で掲揚してはいかがでしょうか。
森先生のかねてよりの持論も満たせ、日の丸を掲揚したい方の要望も満たせる、まさに一石二鳥の案ではないか、とひそかに自負しているところです。
で、そなたの名前はなんじゃ?
私には名前というものはございません。ただ、市場のゴミ拾いと呼ばれております。
では、そのゴミ拾い、それがそなたの名前なのではないか?
~トキと殿様の35日~
モノに名前がないと不便だ。
共通のモノについて他人に伝えるときに、それを共有できないからだ。
この不便を回避するために、私たちはとてつもない労力をかけている。私たちは生まれてきた赤ん坊にまず名前をつけ赤ん坊はその名前で呼ばれると反応することで空腹を満たす、親からモノの名前を順番に教わり、学校に入れば先生や友達の名前を覚えることを強要され、入試では外国人がモノにつけた名前まで暗記する必要がある。
このようにモノの名前を覚えることに尋常ならざる熱意と時間とうんざりが費やされる一方で、自分でモノに名前をつける機会というのはそれほど多くない。
そう名づけの機会が少ないことが今日の我が国における最も重大な問題の一つではないかと考えられるのである。
この問題が端的に表れているのが、キラキラネームとかDQNネームとかって言われているもの、と良く世間を騒がせている。
しかし、個人の名前なんて所詮は個人の名前であって、しかも他人の名前であって正直どうでもよい。
読めない漢字が云々、という議論もなされているが、そもそも一部の国の文字の読み方なんて知らないし(お隣の国すら分からない)、そのうち、なんでもカタカナで、という方向に流れていくものと思われる。
ではこの問題を語る上で、外せないポイントは、変な人名でなければなんだろうか。
ここで一つ寄り道をさせてほしい。
西東京市には「産地直売」と旗を掲げ、自作の野菜を売っている農家が何十軒かある。
多くは棚に野菜が野ざらし(ってちょっとつじつまがあっていませんが)になっていて、お金を入れる缶が置いてある。余談の余談のようではあるが、この缶そばに貼り紙がしてあり、この貼り紙の文章を味わうだけで時間がつぶせてしまう、そんな名文がそろっており、野菜も文章も味わい深い。
この野菜、スーパーで購入するより鮮度が良く、したがって美味しく、その上、大きく、安い。たまに農家のおばあさんに料理の仕方や、その他人生の奥義を教えてもらえることがあり、一度だけ、畑から取ってくるから待ってな、と言われて、もぎたてをもらったこともあるが、親切まで受け取ることができる。
このいいこと尽くめの「産地直売」一つだけ、看過しえない問題があり、それが名前がないことなのである。
一つだけ、と言いつつ二つ目の問題を書き始めてしまうのだが、この産地直売、分かりづらいところにあることが多いように思う。ふらふらしていてたまたま出会っても、そこに二度目に行き着くために相当の苦労をすることになることも多い。
で、はじめの問題に戻るのだが、その分かりづらい場所にあるサンチチョクバイに家人を誘うに当って、行き先を共有することが非常に難しい。
私が思っているとこが、家人の思うそれと異なる場合、移動手段(徒歩か自転車か車か)、服装、装備(水筒)全てにどちらかが不満を抱えることになってしまう。
この問題の解決策として、農家の名前で区別すればいいじゃん、と思ったあなた。
西東京市の農家事情について、ほんものの素人のそしりを免れない。
現地に赴けばすぐに私の言わんとしていることを理解してもらえることと思われる。
ぜひ、一度、サンチチョクバイ・ツアーに、西東京市にいらしていただきたい。
なお、どこの農家で今、なんの野菜を売っているかが分かると非常に便利だし、農家も儲かるのでは?と思ったりもするのだが、それは野暮というものではなかろうか、と個人的には思っている。
ふらふら、あちこち歩きながら、あるんだかないんだか分からない野菜を探し、掘り出しモノに当ることもある、というのが楽しいものだから。
人間国宝に指定される人っているじゃないですか。
画家とか舞踏家なんて芸術方面の人が多いイメージがありますが。
この西東京市版、つまり人間市宝!って作れないものですかね、というお話です。
西東京市にはすばらしい自然、一見の価値ある建造物、絶品のグルメ、などなど、市外から人をひきつけるコンテンツがいくつもあります。
そのコンテンツの一つに、一見の価値がある人、があると思うんです。
人を売り物にするのって、その人が売り物にされること望んでいるのであればなんの問題もないのです。
例えば、ご当地アイドルとかね、会いに来て握手の一つもできればヒャッホーという相手もいますよね。
これ、ひばり駅前の西友の受付のお姉さんが美人だ、とかでも、成り立ったりしそうです。
ここみたいな個人ブログで、本人が宣伝されるのを望んでいるかどうかの判断って、どこかのメディア(地元紙も含めて)に掲載されていてくれればともかく、そうでないと勝手に書いていいものやら、というところがあります。
なので、以下、知っている人だけにしか伝わらない、市外から人を呼ぼう、とはまったく結びつかない人の話をさせてください。
とある団地に囲まれたお店の駐車場の警備員さん?案内員さん?なんと呼んでよいのだか分かりませんが、車の案内をしてくれている男性の動きがとんでもなくすばらしいのです。
もうYoutubeにでも動画をアップしようものなら、世界中から賞賛されるレベル。
周りを歩いている人もほとんどなく、車で移動する一瞬にしか目にできないのが残念で仕方がないのですが、そのしなやかな動き、ストーリーを感じさせる所作、車の中の人へのあふれんばかりの心遣い、一級品とかこのことか、と思います。もう、逆に見とれて運転誤ってぶつかっちゃってもしらないよ、と。
でも何よりすばらしいのは、この誰から評価されているんだか分からない動き、しかも出る杭の打たれる日本(西東京市も当然その一部なのですが)において逆の評価すらされかねない動きを、を何のメリットがあるのだか分からないのに、ずっとし続けている、ということです。
ぜひ、一度、その目でご覧になって、この気持ちを実際に体験していただきたいです。
って場所も書かずにあれですが。