忍者ブログ
東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
 
原発の稼動が既定路線となったところで、反原発の人は相変わらず反対を唱え続けているように見える。
その行為の是非はさておき、これまでの反原発派の取り組みを振り返り、今後の対応について考えてみたい。
 
反原発派は、原発の実用化と同時に生まれたのであって、福島での事故により発生したものではない、という点をまずは確認しておきたい。
その際に主張されたことは、一つには事故を起こしたら取り返しのつかない被害が生じる、ということであり、もう一つには、原発から漏れ出る放射能が環境によろしくない、ということであった(更にもう一点、公正性が損なわれるという主張もあったが、原発特有の問題ではないように思われるので除外している)。
 
二点目の、原発自体が、仮に支障なく運転されていても環境に悪影響を与えるという議論は、科学的な正しさはさておき、一般に受け入れられているとは言いがたい状況であると思われる。今となっては、ほとんど聞くこともなくなっている(主観です)。
 
一方で、一点目の事故による影響については、福島の事故を契機に、一定の理解を得られているように思われる。
ただ、今後の発生確率、及び原発停止の影響を天秤にかけ、後者を重視した政府方針が決定されたこと、報道されている通りである。
 
この現状、つまりは原発事故の発生についての恐怖を言い募ったところで原発を停止させる判断がなされないことは、次の事故が発生するまで、あるいは環境に重大な変化が生じない限り、変わらないものと私には思われる。これだけ論点も、検証もなされている中で、原発事故発生の危険性についての一般の認識を変えることは相当に困難だと思われるのである。
 
では、原発反対派が次にすべきこと、主張すべきことは何か?
 
原発再開の決定の根拠であるところの、原発停止の影響を減少させること、ではないだろうか。
原発停止の影響とは、具体的に、原発停止により電力が足りなくなることに対する懸念であるため、電力生産量を増加させるか、電力消費量を減少させるか、いずれかしかない。
生産量の増加は、クリーンエネルギーの利用等が喧騒されているものの、時間がかかるため、当面は、電力消費量を減少させる、すなわち、節電を実施し、原発がなくたって十分に電力が足りるじゃないですか、ということしかないのではないか。
 
というわけで、原発反対派としては、節電を呼びかけ、節電を実施するインセンティブなりペナルティの制度を作れ!と主張することこそ、次にすべきことなのではないかと思います。
 
 
PR
気がつくとずいぶん遅くまで明るい。
むしろ、結構遅い時間だと思って散歩に出ると意外と暑くて汗をかき、散歩に連れられている犬が舌を出しているのに行き当たることも多い。
景色を見るのは明るいうちがいい。
電灯の明かりが見せる景色の綺麗さもうっとりするものがあるものの、日の光を存分に浴びた後の方が自分の中にすっきり入ってくる。
植物の緑、土の茶色、色とりどりの花、そして自然を遥かに凌駕する人工の着色がされたものたち。
車、建物の屋根、干してある洗濯物、そして動く人間。
 
吸い込む空気なんてすぐに慣れてしまう。
漂う匂いも、強烈な刺激を伴わないと多くは流れてしまう。
それに比べれば、音は、意識次第で、多くを得ることができる。
個人的な趣味趣向である可能性は否定しないが、自然に聞こえてくる音の多くは、感動しないどころか、わずらわしく感じられるだろう。
もっとも耳に入りやすいのは、人の生きているところにいる限り、人間の出す音なんだと思う。
それでも、そんな音を出すほど、たくさんの物事が、人々が、動いていることを感じてほしい。そこに息づくものたちは、ただそこにあるというだけで肯定されるべきなんだと思う。
 
生きていることなんて、人生の素晴らしさなんて、気づくものでしかない。
言い換えれば、自分で獲得するしかない。
誰からも与えられるものではないことを、しっかり教えてもらうべきなんだろうと思う。
きっと教えられる前に、子供の頃に知ってしまい、そして、大人になると忘れてしまう。
そう、忘れてしまったことはもう一度学ぶ必要があるのだ。
そして、大人になって気づくこと、学ぶことは、多くの場合、自分で選択しなくては、自覚的に習得しにいかなくてはならない。
 
大人にとって、忘れてしまったものを思い出すための学校、というのはあってもいいように思う。
数日ないしは、一週間程度、断食するとか瞑想するとか、あるいはひたすら歩いてみるとか(四国遍路やスペインのサンチャゴ巡礼などが有名ですが)、自分で気づくために環境を変えてみる、という方法はいくつかある。
アウトドアや旅行に行く、というのも、このような気づきを得る為の方法の一つなんだろうと思う。
ただ、もっと親切に、丁寧に、自分が選んだものではないカリキュラムで、人生に必要な何かを、新しくではなく思い出すために学ぶ、学校があってもいいと思う。
 
でも、宗教にだまされないよーにねー。
 

私は野田首相があまり好きではない。
更に、民主党政権はいくらなんでもまずいのではないかと思っている。個別具体的な政策判断以前の問題で、約束を反故にすることにより言葉に対する信頼を失わせていること、言い換えれば言葉を信頼する態度に価値がないと思わせていること、が許されざることだと思っている。
また、原発の稼動については、判断できていない。原発反対派、賛成派(と簡単に分類してみると)の対立は、現時点で提示されている情報以上の情報の有無を信じるか否かの対立のように思える。どれだけの放射能を浴びると人体に害があるのか、害がないというレポートがあってもそれを信じられるのか(隠された情報がないのか)。

そんな人である私が、野田首相が所信表明演説で述べたことについて思うのは、まあ、まともだなあ、ということです。
原文が見つからなかったので、こちらの記事で引用されたものを元にしています。
http://blogos.com/article/41163/?axis=t:6154&p=1

私は、この記事について、基本的に賛成です。
つまり、野田首相は「東日本大震災レベルの地震までは耐えられるが、それ以上の地震・災害が起こったら安全ではない」という可能性と、「原発を停止して生活・命に影響がでる」可能性を比べて、原発停止による影響を重視する判断をした、ということだと思います。
そして、この所信表明は、素直にこう読めます。私はリンク先の記事は、ご自分の結論を導くのみ都合よく誤解されていたり、こちらの方がよほど倫理的にどうなのかと思います。

情報の乏しい私には、この判断はありうる妥当な判断の一つだと思います。
少なくとも、明確に間違っているとか、間違っている可能性が濃厚だとは思われないです(そう納得するだけの根拠を持ち合わせていないです)。
また、これまでに懸念として伝えられていることを十分に考慮して判断されていると思います。

語るべきは、この判断に賛成か反対かではなく、この判断を前提にどんな手当てをしないといけないのか(原発近隣に住み、原発稼動に恐怖を覚える人に移住等の手当てをするとか)ではないかと思います。

最後になりましたが、森てるお先生の拡声器第50号に「議場に日の丸、その後」が掲載されています。
事実関係が先生の書かれたとおりであるならば(予算がつかなくて掲揚できないのであれば)、議員報酬を減らして、そのお金で掲揚してはいかがでしょうか。
森先生のかねてよりの持論も満たせ、日の丸を掲揚したい方の要望も満たせる、まさに一石二鳥の案ではないか、とひそかに自負しているところです。

で、そなたの名前はなんじゃ?
私には名前というものはございません。ただ、市場のゴミ拾いと呼ばれております。
では、そのゴミ拾い、それがそなたの名前なのではないか?
~トキと殿様の35日~

モノに名前がないと不便だ。
共通のモノについて他人に伝えるときに、それを共有できないからだ。
この不便を回避するために、私たちはとてつもない労力をかけている。私たちは生まれてきた赤ん坊にまず名前をつけ赤ん坊はその名前で呼ばれると反応することで空腹を満たす、親からモノの名前を順番に教わり、学校に入れば先生や友達の名前を覚えることを強要され、入試では外国人がモノにつけた名前まで暗記する必要がある。
このようにモノの名前を覚えることに尋常ならざる熱意と時間とうんざりが費やされる一方で、自分でモノに名前をつける機会というのはそれほど多くない。

そう名づけの機会が少ないことが今日の我が国における最も重大な問題の一つではないかと考えられるのである。
この問題が端的に表れているのが、キラキラネームとかDQNネームとかって言われているもの、と良く世間を騒がせている。
しかし、個人の名前なんて所詮は個人の名前であって、しかも他人の名前であって正直どうでもよい。
読めない漢字が云々、という議論もなされているが、そもそも一部の国の文字の読み方なんて知らないし(お隣の国すら分からない)、そのうち、なんでもカタカナで、という方向に流れていくものと思われる。

ではこの問題を語る上で、外せないポイントは、変な人名でなければなんだろうか。
ここで一つ寄り道をさせてほしい。

西東京市には「産地直売」と旗を掲げ、自作の野菜を売っている農家が何十軒かある。
多くは棚に野菜が野ざらし(ってちょっとつじつまがあっていませんが)になっていて、お金を入れる缶が置いてある。余談の余談のようではあるが、この缶そばに貼り紙がしてあり、この貼り紙の文章を味わうだけで時間がつぶせてしまう、そんな名文がそろっており、野菜も文章も味わい深い。
この野菜、スーパーで購入するより鮮度が良く、したがって美味しく、その上、大きく、安い。たまに農家のおばあさんに料理の仕方や、その他人生の奥義を教えてもらえることがあり、一度だけ、畑から取ってくるから待ってな、と言われて、もぎたてをもらったこともあるが、親切まで受け取ることができる。

このいいこと尽くめの「産地直売」一つだけ、看過しえない問題があり、それが名前がないことなのである。
一つだけ、と言いつつ二つ目の問題を書き始めてしまうのだが、この産地直売、分かりづらいところにあることが多いように思う。ふらふらしていてたまたま出会っても、そこに二度目に行き着くために相当の苦労をすることになることも多い。
で、はじめの問題に戻るのだが、その分かりづらい場所にあるサンチチョクバイに家人を誘うに当って、行き先を共有することが非常に難しい。
私が思っているとこが、家人の思うそれと異なる場合、移動手段(徒歩か自転車か車か)、服装、装備(水筒)全てにどちらかが不満を抱えることになってしまう。

この問題の解決策として、農家の名前で区別すればいいじゃん、と思ったあなた。
西東京市の農家事情について、ほんものの素人のそしりを免れない。
現地に赴けばすぐに私の言わんとしていることを理解してもらえることと思われる。

ぜひ、一度、サンチチョクバイ・ツアーに、西東京市にいらしていただきたい。

なお、どこの農家で今、なんの野菜を売っているかが分かると非常に便利だし、農家も儲かるのでは?と思ったりもするのだが、それは野暮というものではなかろうか、と個人的には思っている。
ふらふら、あちこち歩きながら、あるんだかないんだか分からない野菜を探し、掘り出しモノに当ることもある、というのが楽しいものだから。

 

人間国宝に指定される人っているじゃないですか。
画家とか舞踏家なんて芸術方面の人が多いイメージがありますが。
この西東京市版、つまり人間市宝!って作れないものですかね、というお話です。

西東京市にはすばらしい自然、一見の価値ある建造物、絶品のグルメ、などなど、市外から人をひきつけるコンテンツがいくつもあります。
そのコンテンツの一つに、一見の価値がある人、があると思うんです。

人を売り物にするのって、その人が売り物にされること望んでいるのであればなんの問題もないのです。
例えば、ご当地アイドルとかね、会いに来て握手の一つもできればヒャッホーという相手もいますよね。
これ、ひばり駅前の西友の受付のお姉さんが美人だ、とかでも、成り立ったりしそうです。

ここみたいな個人ブログで、本人が宣伝されるのを望んでいるかどうかの判断って、どこかのメディア(地元紙も含めて)に掲載されていてくれればともかく、そうでないと勝手に書いていいものやら、というところがあります。
なので、以下、知っている人だけにしか伝わらない、市外から人を呼ぼう、とはまったく結びつかない人の話をさせてください。

とある団地に囲まれたお店の駐車場の警備員さん?案内員さん?なんと呼んでよいのだか分かりませんが、車の案内をしてくれている男性の動きがとんでもなくすばらしいのです。
もうYoutubeにでも動画をアップしようものなら、世界中から賞賛されるレベル。
周りを歩いている人もほとんどなく、車で移動する一瞬にしか目にできないのが残念で仕方がないのですが、そのしなやかな動き、ストーリーを感じさせる所作、車の中の人へのあふれんばかりの心遣い、一級品とかこのことか、と思います。もう、逆に見とれて運転誤ってぶつかっちゃってもしらないよ、と。

でも何よりすばらしいのは、この誰から評価されているんだか分からない動き、しかも出る杭の打たれる日本(西東京市も当然その一部なのですが)において逆の評価すらされかねない動きを、を何のメリットがあるのだか分からないのに、ずっとし続けている、ということです。

ぜひ、一度、その目でご覧になって、この気持ちを実際に体験していただきたいです。
って場所も書かずにあれですが。

 

カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
mimomemo
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター

Copyright © [ はちこくやまから見える世界 ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]