東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
気がつくとずいぶん遅くまで明るい。
むしろ、結構遅い時間だと思って散歩に出ると意外と暑くて汗をかき、散歩に連れられている犬が舌を出しているのに行き当たることも多い。
景色を見るのは明るいうちがいい。
電灯の明かりが見せる景色の綺麗さもうっとりするものがあるものの、日の光を存分に浴びた後の方が自分の中にすっきり入ってくる。
植物の緑、土の茶色、色とりどりの花、そして自然を遥かに凌駕する人工の着色がされたものたち。
車、建物の屋根、干してある洗濯物、そして動く人間。
吸い込む空気なんてすぐに慣れてしまう。
漂う匂いも、強烈な刺激を伴わないと多くは流れてしまう。
それに比べれば、音は、意識次第で、多くを得ることができる。
個人的な趣味趣向である可能性は否定しないが、自然に聞こえてくる音の多くは、感動しないどころか、わずらわしく感じられるだろう。
もっとも耳に入りやすいのは、人の生きているところにいる限り、人間の出す音なんだと思う。
それでも、そんな音を出すほど、たくさんの物事が、人々が、動いていることを感じてほしい。そこに息づくものたちは、ただそこにあるというだけで肯定されるべきなんだと思う。
生きていることなんて、人生の素晴らしさなんて、気づくものでしかない。
言い換えれば、自分で獲得するしかない。
誰からも与えられるものではないことを、しっかり教えてもらうべきなんだろうと思う。
きっと教えられる前に、子供の頃に知ってしまい、そして、大人になると忘れてしまう。
そう、忘れてしまったことはもう一度学ぶ必要があるのだ。
そして、大人になって気づくこと、学ぶことは、多くの場合、自分で選択しなくては、自覚的に習得しにいかなくてはならない。
大人にとって、忘れてしまったものを思い出すための学校、というのはあってもいいように思う。
数日ないしは、一週間程度、断食するとか瞑想するとか、あるいはひたすら歩いてみるとか(四国遍路やスペインのサンチャゴ巡礼などが有名ですが)、自分で気づくために環境を変えてみる、という方法はいくつかある。
アウトドアや旅行に行く、というのも、このような気づきを得る為の方法の一つなんだろうと思う。
ただ、もっと親切に、丁寧に、自分が選んだものではないカリキュラムで、人生に必要な何かを、新しくではなく思い出すために学ぶ、学校があってもいいと思う。
でも、宗教にだまされないよーにねー。
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