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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
コインロッカーと言えば、コインロッカーベイビーズと、アヒルと鴨のコインロッカーである。
両方に共通するものと言えば、と私は片方読んだことがないのに書き始めてしまったから最後まで書くと、コインロッカーって誰でも知っている、ってことである。
誰もが知っていて、必要なとき以外は意識されることも少なく、どこにでもある。
 
その歴史、というのはモノを預ってお金を頂くビジネス、の歴史は古く、原始より、存在した。人類最古のビジネスと同じくらい古いのではないだろうか。
これがコインロッカーとなるとぐっと新しくなる。ものの、詳細はよく分からない。
一説によれば、アメリカの遊園地で入園者の荷物を預っていたものが、その業務にうんざりして、ロッカーを置き、カギを有料で貸し出したのが始まりとも言われている。私が今適当に作った説なので根拠は一切ないが。
が、カギを人手を介して渡すことなく、機械にコインを入れ、カギが受け取れるようになったことは大きな発明であった。
人の手を介さずに荷物を預かることは、人を不要とし、つまりはコストが下がることになった。コストが下がれば利用者が増えた。また、コインロッカーを製造するものは製品を改良、多様化し、ますます多くの場所にコインロッカーが置かれることとなった。
旅行者は駅や目的地近くで、買い物客はその途中で、また銭湯やスポーツジムなどなど、多くの場所に設置され、多様な用途に用いられていることはご存知の通りである。
 
一方で、問題も多い。
コインロッカーに荷物を預けるには人を介すことなく、つまりは預け入れるものについては利用者のモラルに任されている結果、違法な取引に使われたり、ものがそこに捨てられたりしている。もう、究極としか言いようがないのが、コインロッカーに赤ん坊を置き去りにした事件であろう。
現在、利用規約においてコインロッカーに預けてはならないものが定められているし、監視カメラ等の設備も、このような凄惨な事件の再発を防止することに一役かっているものと思われる。
 
ところで、利用規約には、生き物を預けてはならないと決められており、人間はもちろんのこと、犬や猫、昆虫なども入れることができない。
これに対して、一時利用を前提にペットを預るコインロッカーも考案されている。ロッカーというのか、コインゲージとでもいうのだろうか、ネットで調べると特許の出願をみることができる。
旅行先での施設や観光地への入場、買い物など、本当に1時間や2時間の利用を想定して設置される可能性がなくはない、が私はこれが世の中で広まるとは思えない。
その理由は、万が一、買主が引き取りに現れない場合、もう本当にどうしようもなくなるのではないかと思われるからである。
無条件で保健所に連絡できるのであれば、設置を検討できる場所はそれなりにあるとは思うのだが。
 
また、特定の条件でコインロッカーが満室?で使えない事態もしばしば発生している、らしい。
大きなイベントの前に最寄の駅のコインロッカーが一杯になる、という話はよく聞く。
信頼関係の構築が前提とはなるものの、その場で臨時で荷物を預るサービスというのは、元手不要でローリスクローリターンなビジネスとして成り立ちうるような気がする。
例えば、駅で荷物を受け取り、近くに止めた車に移動する、イベントが前提であれば通常は日帰りで誰しも帰るであろうから、一日保管でもニーズが多そうに思える。
集める時間帯と返却する時間帯を除けば、一人保管係りがいればよいのだし。
信頼関係だって、免許証のコピーを提示するでも写真を取らせるでも、対応のしようはあると思える。
 
コインロッカーの投資というものも存在する。
設置場所を見つけるのが困難ではあるが、一定の初期コスト(コインロッカーのモノの代金と設置費用)をかけ、稼動に応じて収入を得る。
要は不動産投資と同様のスキームなのだと思われる(設置場所がとんでもなく重要という点も同じ)。
不動産に比べて転売が難しいとは思われるものの、逆に初期投資がとても安く、敷居が低いと思える。
投資家を誘導した人はとんでもなく賢いと思うものの、設置場所を自分で探してこられるのでなければ、つまり業者にその部分を委託するのであれば、成功する確率はかなり低いように思える(だって、業者だって少額で投資できるんだから自分でやるでしょうに)。
 
最後に、ひばりヶ丘近辺では、西友とクイーンズ伊勢丹にそれぞれコインロッカーがあるようなので、活発に活用され、地域がもっと盛り上がってくれたらうれしいなあと思う。
 
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少し欲しいモノがある。
どうしてもほしいとか、なんとしてでもほしいとか、そこまでじゃなくて、でも、あきらめてしまうのも惜しい。
私は小さいときから手に入るものより手に入らないものが多くて、段々と手に入れたいという欲求自体が少なくなってきたのだけれど、それでもほしいものが、たまに出てくる。
少しお金を出すくらいだったらいいのだが、手に入らないものもたくさんある。欲しい気持ちよりも、手に入れること自体をあきらめてしまうことがたくさんある。
 
そんなあきらめる理由のひとつが、私がこれを手に入れるためにすることが、他人にとってはあまり役には立たないとか、これを手にするためにすることより他のものを手にすることの方が他人にとって利益になる、なんてことがある。他人はコミュニティーであることが多い。
これって、コミュニティーをつまらなくさせる方向の思考なんだよなと思う。
もっと自分の欲望に忠実な方が、自分も他人も楽しくなるのに。上手くいかなかったり、利益にならなかったりするかもしれないけど、より成功に近いものを選んでいるだけで、成功に至る要因なんて、自分が思うよりも遥かにたくさんあるのだ。そう考え始めると、自分の選択はやっぱり間違えていたのではないか、とつくづく思う。
でも、自分の欲望に忠実だってことが、他人に知らせてよいことなのか、は悩む。これを恥の文化圏の人間である、と思われるであろうか。
 
目先の利益ばかり考えているようでは成功できない、なんてこともよく言われるけど、どれが目先の利益なのかの判断ができる人にはこんな忠告は不要な気がする。
自分の気持ちや欲望に忠実であることが目先と言いきれるだろうか。
 
そんな益体もないことを考えながら、出張の帰りに、職場に買って返るお土産を物色し、餃子ポテトチップスではなく、とちおとめ饅頭を購入した。

生きていると、任されて何かを選ばなければいけない場面が多々出てくる。
相手の好みが全く分からないまま、なんでもいいよ、と言われて選ぶ場面が。
友人へのプレゼントにしてもしかり、先輩との飲み会のお店にしてもしかり、義父母の旅行先にしてもしかり。
こちらから相手に贈るもの、とか、お金をこちらが払う、とかであればまだ救われる。
ただ相手も払う、とか、相手が奢ってくれる、なんてときには本当に困り果てる。
私にとって一番辛かったのは、ヌケル場所をと頼まれ、方法も年もその他の趣味も分からないままサービスを検索したことだろうか、という思い出を語ることが今後ともないことを願いたいけど。

当然のことながら、選んだこちらのセンスが問われているわけで、がっかりされるのは避けたい。

とすると、まずは地雷を避けることになる。
初めてのデートのお店を任されたとき、ラーメン屋は選ばないでしょう、みたいな。
贈り物ったって、生物はそりゃあなしだよね、とか。
ここで失敗することが、まあそれなりに散見されるので、ってホワイトデーの職場のお返しにバンティー贈ってしまうようなね、世の中は楽しい、のではあるけれど、自分が相手との将来を捨ててまで笑われたいと思うことはまずない。

ここまでは大した障害もなくくる。問題は次だ。
どストライクな回答が得られる場合がたまにある。
雰囲気が良くて、でも安い居酒屋を知っているとか、数千円で買えるのに世間で品薄になっている商品が手に入るとか。
まあこんなときには地雷を避けることすら検討することなく、それを選べばいい。
つまり、意味のない妄想だ。
ただ、妄想だと気づくことには意味がある。
妄想だと気づいたときには悩みのループを抜け、次に進める。

要するに回答のない問題なのだ。
となれば考えるべきことは絞られる。
自分の好みのものを探すのだ。

自分の食べたいものを考えればいいし、自分のもらったらうれしいものを考えればいいし、自分の行きたい場所を選べばいい。
少なくとも、それを考えている時間を楽しめる。
自分が満足できるものを見つけたとき、自信だって芽生えるだろう。
自分を信じてみてはどうだろうか。

ただ、私は人からこの手の悩みを相談されたときに、なんらかの具体的な回答を返せるようでありたいと思う。
相手にもっとよく聞いてみたら、という返事をする人間にはなりたくない。
少なくとも西東京市近辺でオススメの場所や、お店なら、シチュエーションに応じて、ご相談に乗りますよ。


 

ずっとこの日を待っていた。
後何日、を指折り数え、メモし、でも誰にも言えないのでさりげなく会話に溶け込ませて自分の耳にも音を届けた。
影響のありそうな全ての要因をそっと手のひらで押し出したり捕まえたりした。
当日、少し時間は押してしまったし、待ちわびた時間までの過ごし方には不満があったのだけれど、何とかそのときを迎えられた。
 
もちろん、これはスペシャルタイムが開始されたことを意味するのみであって、なんらかの結果がもたらされたわけではない。
結果を期待しうるような席につけただけのこと。この席に提供される料理がなんであるのか、皿を見るまでは、もっと言えば口にしてみるまでは分からない。皿が提供されるのかだって確かではない。
でも、私は席に座ったんだし、その席でワクワクしていたんだ。これから始まる何かに。
 
準備のために時間をかけ、しばし、しかし、じっくりと待ち、心を静めて、自分の鼓動を確かめ祈る。
釣竿にかすかな振動を感じるだけで血液の温度が跳ね上がる。
いくどかの繰り返し、段々と持ち上がってくる今日は何もなく終わるのではないかという猜疑心。
 
確かな手ごたえがやがてもたらされる。
感触は十分、月並みながら心が躍りだす。
足取りは確かに、踏み外さぬように、強く踏みしめすぎないように、一歩一歩進んでいく。
過去の記憶を甦らせ、反芻し、記憶が塗り替えられた暁には用済みとなる最後の余韻を楽しむ。
 
紙一重、刹那の時間で期待が打ち砕かれる。
幸い、こちらにダメージは生じていない。一球、派手に空振っただけだ。
とはいうものの、元の地点には戻れない。大事時間もかけてしまった。
手ぶらのまま前進する。目的地に到達してしまうわけにはいかないが、中途半端な場所では身動きが取れない。
手を、思考を、期待を止めることは許されない。一瞬たりとも止まってはいない。ゆっくりと回転し続ける。
 
休息の地で脚だけが疲れを取り、次の行軍に備える。
時間が厳しくなってくる。
手ごたえも徐々に減ってくる。
かすかな望みは、かすかな手ごたえを、増幅させる。
心拍数を押し上げる力強さはどこにもなく、けだるさばかりが溜まっていく。
そしてついに、時間が切れる。あれほどあった時間が。あれほど望んだ時間が。
 
訪れるのは完全な絶望ではなく、一抹の寂しさと、些細な安堵感。
何も得るものはなかったが、失ってもいないのだ、と慰めとも言い訳とも付かない言葉を口の中で転がす。
肌で感じる空気は、意識しても感触がなく、世界は茫洋と瞬いていた。
 
大津市で子供が自殺した問題は痛ましい。
関係者の態度は、外野から非難する材料を惜しげもなく与えている。
 
非難することに情熱を傾ける者が後を絶たない一方で、これからどうすべきかに悩む人も多くいる。
いじめをなくすにはどうしたらいいか、いじめの的になってしまったらどうしたらいいか。
 
多くの意見がなされ、議論がなされ、蓄積されている。
私は、いじめの被害に遭っても、自ら命を絶つことがないよう、子供に対して親や社会ができることの一つを述べたい。
全ての問題を解決する万能薬が発見されるまで、最悪の結果だけでも免れるように、できることはしておきたいと思っている。
 
子供ではない私たちにできることとは、子供に学校以外の世界を提供することだと思う。
世の中はあなたが思っているよりも広く、時間はあなたが思っているよりも短く、あなたはあなたが思っているよりも価値がある。
そんなことを、教えるのではなく、体感できるかもしれない機会を多く与えてあげることだと思う。
 
自分とつながりのある大人同士の場に子供を連れて行くことだってその一つだろう。
子供が学校の知り合い以外と触れ合えるサークルに参加させることだってその一つだろう。
ネットだって、書物だって、なんだっていいのだ。
 
学校の中だけで、子供の中だけで、数人の周りの人たちだけに、悩んで、関心の全てを向けるべきではない。
すべきこと、できること、したいと望むことなんて、まだまだたくさんあるのだ。
 
そんな機会を作れる大人になりたいと、そんな機会を作れる人を尊敬したいと、私はそんなところから始めたいと思っている。
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