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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
区切りの時期に、振り返り、やり残しを数え上げ、次への抱負を暖めなおす。
自分にとって分かり切ったことをあえて言葉にすることの大切さは年々実感されるところです。
意外といろんなことを忘れつつ生きていることに、やっと思い当ったというか、
忘れていることを思い出す機会が増えたというか。

今年の私にとってのテーマは、健康、でした。
身近な人、どころか自分自身が体調を崩し、健康でいることがいかにありがたいことなのか、
健康でいる間に、自分のしたいことをできるかぎりやってしまわないといけないのか、
がよく分かったような気がします。
ついでに体力が衰えたときの生きる楽しみ、みたいなものを見つけておくべきなのだろうなあ、
と思ったりしました。

健康に気をつけて、オススメの健康食品があるんですぜ!っていう話題でなくて、
なんだか恐縮するところもありますが。

西東京市周りでは、市議会議員選挙もありました。
落選された現職の方には(私が念頭に置いているのは一人なのですが、そもそも現職で落選
された方が何人いらっしゃるか調べていません)、在任中の活動が否定された、という
捉え方をされないでほしい、と切に願います。
在任中のご活動を、私はあまり評価しませんが、いずれにしても、そのことが反映された
選挙結果だとは思えません、という意味です。
ついでに、発信力No.1、とポスターに書かれていた候補者の方には、何を根拠にそんなことを
書いているんだ!?と思ったりしましたが、土砂降りの雨の中、駅前で迫力ある声を
響かせておられたのを伺い、No.1を名乗られるのも分からんではないなあと思ったり
しました。あとは、お話の内容がもう少し実のあるものだと個人的には良かったのではないか
と惜しまれます。

その他の出来事としては(ひばりがおか駅周りってことですが)、
・二郎に一度しか行けなかったとか、
・サンメリーの代わりに新しいパン屋ができるかと思っていたのに出来なくて散歩して
少しあるいてイットクさんとかに言ったとか
・シメの定番、大番にライバルが出現するも、ヒバリの駅前で秋津ってお店が繁盛するのは
心情的に微妙とか
なんてことでしょうか。食べ物の話ばかりで恐縮です。

2015年は、北口の再開発が進むといいなあ、と願ってやみません。
ライフとクラ寿司の中間当りのセブンの前の渋滞も緩和されるとうれしいです。
ついでに、こんなどうでもいい文章に目を留めてくださった全ての方に幸運が舞い込んで
ほしいものです。


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他人の発言は、一時的にさえぎることができる。
しかし、その口を永遠にふさいでおくことは、相当な困難が伴うミッションであると知っておくべきなのではないだろうか。

方法はいくつかある。
(1)殺してしまう、あるいは物理的に口を潰す、両手を骨折させる、等
(2)脅しつけて辞めさせる
(3)教育する

いくつかと言ってみたが、私には、全てがこの類型のどれかに当てはまるような気がする。ちなみに発言っていうのは、文章なんかも含めて考えている。

他人に自分の望ましい発言をしてもらうためには、原稿を渡すか、偶然に期待するかの2択であり、多くの人は偶然を選んでいる。
一方、先程挙げた口をふさぐ為の方法としては、多く、(3)教育、が利用されているのである。

ここで教育というのも、なかなか語義の広い言葉であるが、一言で言えば他人の態度や嗜好を返させるもの、ということができる。
そう、論争というのは一般にここに、つまりは教育に、分類されると私は考える。

ところで、教育以外の手段により発言を停止させることでは、単なる停止しか起こらない。テープレコーダーで言えば(そろそろこんな例えが通じなくなってきているのではないか、と思われる)停止ボタンを押す、ことに他ならず、というか場合によっては停止ではなく一時停止なのかもしれないが、いずれにせよ、その発言を止めるだけで、代わりに望ましい発言がなされる、というわけではない。
教育の場合は目的がこのような「停止」に留まらない。積極的に次のテープを流すこと、つまりは自分の意に沿った発言を行うことまで求めるのである。

しかし、教育の成功する確率は著しく低い。それでも多くの人がこの手段を多用することが不思議でならない。
成功しない理由はいくつかある。
まず、教える方に教えるためのスキルが欠けている。これはもちろん、教わる方は教わるスキルが欠けていることとセットではない。何故なら教わるスキルは義務教育から高校・場合によってはその先まで、存分に鍛え上げられているはずだからである。
しかし、教わる方にも問題の半分がのしかかっており、それは教育される側に、されるだけの心構えがないことによる。

何故、こんなことを言う人がいるのだろう、の答えは、恐らくない。
どんな意見であろうと、言う人は見つかるものなのだ。
でも、他人のいやな意見を聞き流す方法はある。それは、その言葉が目立たないほど、多くの言葉で多い隠してしまうことに他ならない。

元々、デマを拡散する人や、それに便乗する人、デマだと分かっても謝罪しない人、を想定して書き続けていたのだが、よく考えてみると、ヘイトスピーチも同じような光景だ。

ヘイトスピーチで気持ちがよくなっているのを見るのは気持ちが悪い。しかし、同じようにヘイトスピーチを避難して気持ちよくなっているのを見るのも気持ちが悪い。
他人を、気持ち良さそうにしていると、ほんわかした気分にさせられるのはAV女優くらいなものだ、ってことは覚えておいて損はない。
参議院で内閣不信任案が可決された。

その結果、参議院で審議されている議案は廃案になった、とのこと。
では、なぜいきなり、内閣不信任案が提出・可決されたのか。その根拠は、安倍首相以下閣僚が予算委員会に出席しないことが、説明を求められたら必ずいくように、と書いてある憲法63条に違反していること、である。
ここまでは、どのメディアでも共通に報じている。

では、何故憲法63条違反を犯したのか。
この問題を考えるに当って、委員会へ出席しなかった事実があることを確認しておきたいと思う。
その理由について、自民党の説明は、形式的に分からなくもない。つまり、従来は与野党で合意して閣僚の出席を決めてきたが今回はその合意がないこと、そのような状況下、議長から閣僚への出席依頼があったものの、議長は不信任議案が提出されている状況でそのような依頼を行える立場にあるか疑問であること。
この理由付けは、形式的に過ぎると思う。恐らく自民党でも本気で信じているわけではないのだろうと思う。

では、実質的に出席したくなかった理由は何か?
どうもこれがよく分からない。
行くだけ無駄だ、どうせ実のある議論がなされるか不明であるし、ということであればそれなりに納得できる。その場合、呼ばれていた時間に何をしていたのかが問題になるのだろうと思う。

逆に、野党側が閣僚を呼んでまで説明させたかったことは何か?
これもどうもはっきりしない。
参議院で議論することで、これだけ実益があったはずなのだ、ということがどうも見えてこないのだ。

というわけで、このどうにも心に響いてこないよなあ、と私が思っているところの理由は、この国会で議論することの実益がよく分からない、という点に落ち着く。
一般論としては分かるんだけど、今、まさにこのときに、閣僚を呼びつけないといけない理由は定かではないように思える。

なお、民主党は参議院の後、記者会見で、不信任案よりも成立させたい議案を先に審議することでその法案だけでも成立させられないか、を自民と協議したところ、自民から拒否された、と主張している。これもよく分からないのだが、どちらを先に審議するかは最終的には多数派、つまりは民主党の意向で決められないものなのだろうか。

以上、言葉は適当なのですが、こういうことを客観的に説明してくれる文章が読みたいです。
どちらかの立場で、相手の非を述べていてもいいのですが、分からないことが多くて、うんざりしてしまいます。
東京都議会議員選挙が終わった。
多くの選挙がそうであるように、今回の選挙もまた、誰が都議会議員に相応しいのか、私にはさっぱり分からなかった。
西東京市では現職二人が、そろって再選されたようである。
今までの実績くらいは、東京都の議事録でもあされば出てくるのだろうが、私にはそこまでの情熱も、時間もなかった。気分的には完敗である。

一方で各候補者のHPを拝見しても、何がしたいのだか、さっぱりわからなかったこともまた事実である。まあ、問題起こしてないみたいだし、という感覚からは現職二人が当選したのもそんなものか、と思う。

都議会議員選挙を巡る状況の中で、都議会議員に誰がなるのか、以上に私にとって面白いのが、日本維新の会の共同代表である橋下さんが、選挙結果が不振であったことの責任を取って、共同代表を退くのか、である。
維新の支持率が、橋下発言のあおりを受けて、下降傾向にあると報じられている。
都議会議員選挙の結果が、維新にとって惨敗と呼ぶに相応しいものであったため、共同代表を退陣すべし、という声も聞かれる。が、現時点では退陣する、と確定しているわけではなさそうである。

日本維新の会にとって、橋下さんが共同代表であることは必要なことなのだろうか?私のような素人には、現時点での維新の支持率は多くが彼の個人的なカリスマに寄るものであり、橋下さんが共同代表を辞めると、維新の支持率はさらに下降するように思える。
このことは、私が橋下さんを支持するとか、尊敬しているとか、って話とは関係なく、集票力、という意味で橋本さんは凄い、ように思える。

もちろん、組織が、次の選挙で勝つことだけを目的としている、とまで単純に考えられないことは分かっている。
選挙の仕組みについても分かっているとは言い切れないのかもしれないと思う。もっと代表になると選挙に勝てるような人材がいるのかも知れない。

ただ、その点が明確にならない時点で、維新としては(一部の人かもしれないけど)、代表を交代させることが、より次回の選挙に勝つ可能性を高めるかもしれないと考えているわけだ。
組織にとって必要な人、なんて、橋下さんほどはっきりしていても、人によって評価が分かれる、ということは知っておいていいと思う。
それほど、人を評価するってことは難しいという意味で。

※6/25には、橋下さんが共同代表を辞任することについて、否定的な見解を出している。辞任をぶち上げて潔いところを見せた上で、最後には泣き落としで協力を請う。なんだかできすぎた筋書きだが、あまり愉快なものではないと個人的には思う。
西東京市にある知的障害者更正製施設で、虐待があったとして市議会に報告されている、らしい。
http://blogs.yahoo.co.jp/a070037/9547168.html

痛ましいよなあ、と思う。
今までなんの兆候もない施設ではないのだ、なんでもしようがあったのではないか、とう気がする。
もちろん、気付いていても止められない人がたくさんいたことは想像に難しくない。
でも、他人を責めてみても、いい方には、改善には、向かわないと思う。

では、どうしたらいいのか?
私は、障害者の施設を管理を、行政が今以上にしっかりやれば、痛ましい事故がなくなるとは思っていない。皆無ではなくとも、減ればいいのではないか。その減る、は健常者が暴力行為を受ける程度に減らすことで、これは二度と生じない、ことと数字的には似たようなものだ。

障害者に対する虐待をなくすにはどうしたらいいのか?
障害者に虐待しないような人に世話を任せればいい。
障害者を虐待しないような人をどうしたら見つけられるのか?
そんなことに正解はない。ただ、見つけたことの責任を、自分で取れるようにすべきなのではないか、と思う。障害者自身が選べればそれでもいい、家族がいれば家族でもいいと思う。
今は、見つけることもできず(行政の認可している施設は限られていて職員を選ぶ自由なんて普通はない)、見つけても(費用的な意味で)頼ることもできず、という状態にある。

では、自分の家族にいる障害者が傷つかないよう、生きていくための世話人をどうやって見つけるのか。その費用をどうするのか。それは、集めるのだ、自分で。
それってすごい大変なことを一部の人に押し付けようとしている、ように聞こえるかもしれない。

もちろん、その通りだ。
でも、現在、費用を自分で集めようとしても上手くいかないのには、人々の善意の総量が足りない、以外にも理由がある。それは、寄付をしたところで、税金が安くならない、という制度によるものだ。

これに対して、現在の制度はどうなっているのか。私は寄付もしない、実際に手を動かして障害者のために何かをすることもない。
代わりに、税金を納めている。そしてその税金が、障害者のために、役立てられると思っている。今回のたんぽぽの虐待事件は、その税金の使われ方が不適切だった、と言い換えることもできる。

上記は個人的な意見に留まるものである。しかしながら、同様に、
誰かを責めるのではなく、解決策を模索するような議論が、市議会でなされることを期待してやまない。
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