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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
ひばりヶ丘に「ひばり」という名前のうどん屋があったことを覚えているでしょう
か?
そもそも、そんなお店があったことを知っていたでしょうか?

既に閉店してしまっている、という情報があります。
そのため、過去形なのですが、もしまだ営業されているのであれば、うれしさのあま
り、喜んでお詫びするとともに、味わいに足を運びたいと思っています。

こちらは、東村山にある「野口製麺所」の姉妹店なのだそうです。
野口製麺所と言えば、
・場所が分かりずらい、分かっても行きずらい
・ときには、とんでもなく待たされる(行列で)ことがある
・そして、うどんがとんでもなく美味しい
・それにも増して、ロケーションがとっても素晴らしい
そんなうどん屋さんです。
自然の中で食べるうどん、ただただ美味しいです。
暑い日に、屋外のテーブルで汗を流しながらすするうどんもおすすめです。
寒い日に、屋内のテーブルでやけどに注意しながらすするうどんもおすすめです。
個人的には、西武園の花火をうどんを食べながら見たことがあり、近くて大きく、最
高の眺めでした。

ひばりヶ丘では、商店街のはずれ、住宅街と言ってもいいような立地でした。
環境がいいとは言い難い場所です。
人通りだって多くはありません。
前に営業していたプラートーンというタイ料理屋さんも閉店されています(こちらも
美味しかったのに)。

私が悔しくて、悲しいと思うのは、閉店した後になってから、こんなお店があったの
だと知ったこと、です。
知っていれば、きっと行っていたのに、と残念なんです。

新しく開店したお店の情報を知る手段は結構限られてしまいます。
ひばりヶ丘駅のそばに、ミニ四駆Barができたのをご存じですか?
あるいは、北口商店街にフレンチのお店がオープンしていることは?

知らないうちに、閉店されたり、移転されたりしてしまうのは本当に残念だと思いま
す。
北口にあった、長崎ちゃんぽんのくぼた、は東久留米(駅の近くです)に移転されて
います。
北口にあるロスオーチャーは北口の再開発後も営業が継続されるそうです(と食べロ
グの口コミにあります)。

まだまだ、地域情報の共有って、やり方がありそうだな、と思っています。
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4月1日から、西東京市と新座市で、図書館の相互利用ができるようになっています。
新座の人はひばりヶ丘図書館が使えるようになって、ひばりヶ丘図書館は駅の近くにあることもあり、便利になるのでしょう。
一方、西東京の人は、一番近い新座の図書館が栗原、その次が片山(36号線の壱番館ってパチンコ屋の隣、ジョナサンの向かい)なので、新座に勤めていたり、通学していたり、実家が新座で親の介護をしていたり、ってことがないと、直接の恩恵は無さそうです。
ただ、西東京では所蔵していなかったり、貸出中だったりするような本が借りられる、かもしれません。

ところで、西東京市のホームページに、起業のセミナーの案内2つ、昨日付で出ていました。
起業する際、自治体からの支援がいくつかあり、登記費用が一部免除されたり、銀行融資が受けやすくなったりします。
そのため、このようなセミナーには、ぜひ足を運んでいただきたい、と私は思います。
それに、来るのは同じ市内の人ばかり。最初の顧客を見つけるいい機会とも言えるでしょう。

何かを学ぶ際、人から話を聞くことを選ぶか、書類や書籍を読むことから始めるか、は人それぞれです。
私は聞くことから始めた方を選びがちです。

その時、その人が言っていることが本当なのか、を確かめる方法があると有り難いです。
その根拠が、どこかに書いてある、とかであればいいのですが、ネットで情報を探すと、いろんな見解があったり、そもそも情報が全くなかったりすることも珍しくありません。

まず、いろんな見解があるほうの話ですが、見解ではなく、事実関係が知りたいだけなんだ、と思ってもそれを確かめることは案外難しかったりします。
ちょうど、今日、LINEが運営しているゲームで資金決済法の供託が行われていなかったのではないか、という疑惑を毎日新聞が報じ、LINEが反論しています。
この話では、関東財務局のLINEに対する検査が行われているのですが、これが資金決済法違反を調査するために行われているのか(毎日新聞の見解です)、単なる定期検査なのか(LINEの主張です)、という事実関係で真っ向から対立しています。
どっちが正しいのかは、関東財務局の人に確認すれば、一発で分かると思うですが。

新聞を初めとするメディアが、意外と間違える、と信頼感を失っている昨今、間違いのない事実を伝えるメディアがもしできれば、抜きんでられそう、だと思います。昔、猪瀬直樹さんが原作、弘兼憲史さんが作画のラストニュースというマンガがありましたが、あんなイメージです。

さて、もう一方の情報がない、という方の話ですが、こちらは、行動の履歴を保証してくれるサービスができるといいな、と思います。
就職や転職では、学歴や職歴を客観的な事実として見られますが、例えば図書館で借りた本の履歴が事実として提示できれば、評価の1つとしてもらえるかもしれません。広告業界へ就職面接で、私は業界についてこれだけの本を読んでいます、とアピールできたり、ということです。
図書館の貸出履歴だけではなく、アマゾンの購入履歴も同様に使えるでしょう。

ビックデータの活用は個人の情報をより正確に相手が知るためにも使えるのではないかということなんですが、ここにはもちろん、問題があります。
銀行に転職したい人が、自分は浪費しない人間なのだ、とアピールしたいとします。
通帳を相手に見せるのが一番簡単な方法ですが、これだと自分の全てをさらけ出すようで、気が引けるでしょう。
できたら、見せたいデータだけを抜き出したいところですが、それをやるとデータが、正しいのか受け取った方は判断出来ません。こらが、問題、です。

抜き取ったデータの正しさを検証して、事実だ、と認定してくれる人や組織があればなあ、と思う所以です。

これで起業しようと思えるほど収益性があるとは思いませんが、誰かやってみたら、案外、当たるんじゃないでしょうか。
乙武さんの不倫について、あるいはそもそもの乙武さんの人柄について、多くの人が、それはもう有名な人から無名な人まで語っている。
思うところは多々あるものの、ここではその点には触れないことにしたい。
私が手を突っ込んでかきまわしてみたいのは、乙武さんの奥さんの謝罪について、である。

まず、乙武さんの奥さんは、夫の不倫について、その責任の一端が自分にあるとして、お詫びの文章を公開されている。そして、この謝罪が、夫の不倫の責任の一端が妻(女性)にあると考えること、そしてそれを謝罪することが許せない、と非難され炎上した、という次第である。

これ、身近な人の話だったと仮定してみると、会社の上司が新人の女の子に手を出して、職場で痴話喧嘩を繰り広げた挙句、本人及び奥様から職場を騒がせて申し訳ない、とメールが来た、そんな状況ではないだろうか。
私が思いつきでこしらえた設定において、このメールを非難する人がいるのだろうか。責任の一端が自分(妻)にあると言うことが、それほどおかしなことなのだろうか。
あるいは、逆に、共働きの奥さんが夫を裏切り男と逃げ、プロジェクトは大穴が開いて、大炎上、という場面に夫が現れ、家庭内が円満でなかったことが今回の騒動の引き金となっており、申し訳ない、と謝罪することが非難の対象になるのだろうか。

一般論として、夫婦の片方が問題を起こせば、もう片方にも責任の一端がある、というのはそれほどおかしな感覚ではないと思う。
そこまで責任感じることないんだよ、と優しく労ってあげることはあっても、非難の対象になることはないだろう。

では、乙武さんの奥さんの謝罪が問題になったのは何故なのか、その理由の一つは、奥さんの謝罪まで含めて、乙武さんの謝罪と理解されたから、だと思う。もともと乙武さんの不倫が許せないだか、いるネタとして楽しくてしょうがないたとか、そういう人たちにとって、奥さんの謝罪は、「乙武さんが言わせたのだとしたら」叩きがいのあるものなのは理解できる。
でも、これまたおかしな話で、二人の人が(つまり乙武さん夫妻が)一緒に謝罪文を考えたなんて根拠もない妄想であるし、そもそも乙武さんは妻の謝罪を出すことには反対だったけど、奥さんの信頼をつなぎとめるためには断われなかった可能性だってある。

妻の謝罪が、本当に妻の気持ちに沿ったものだったとしても、非難してる人もたくさんいる。そして、その人たちは、自分が何故、避難したくなるほど、乙武さんに怒っているのだか理解できていないようにみえる。
私が思うに、乙武さんの奥さんは、その積極性が、攻撃の対象なのではないかと思う。

今回、多くの人の攻撃性を引き出したのは、失敗したかに見えた乙武さんが妻の掩護で復活しそうだったことではない、と私は思う。
それよりも、妻が、本来出てこなければならないわけでもない謝罪の場に登場したこと、なのではないだろうか。

メディア衰退の原因はその媒体独占性にあるといわれる。
今回の乙武さんの奥さんの謝罪は、これまでだったら、テレビや雑誌が追いかけ回し、固辞するガードの隙間から手を伸ばし、爪先をかすめてインタビューができれば上等、ということだったはずだ。
それが自分からメディアに現れてしまった、私はこれこそが言葉で明確にされなかったものの、そして恐らくは自覚ないのだろうが、批判者の心の中ではないかと思われてならない。

コミュニケーションにおいては、誤解させる意図がなくても、正しく伝わらないことがある。
モノゴトの程度を示す言葉を使うことによって、この伝わらなさを増幅することが可能である。

私と妻の間には、多くの壁や川・谷が横たわっているが(たまに自分自身も横たわりたくなりながら会話に耐えているが)、その中でも、この程度を示す言葉のもたらす弊害は大きい。

雨が家の中に振り込んで、床がべちゃべちゃだ、と聞いた場合、想定する事象が全く異なる。
私は、水たまりでもできているのではないかと思う程度でなければ、べちゃべちゃとは表現しない。タオルで一拭きしてふき取れるような程度は、濡れている、であってべちゃべちゃとは言わない。
一方で、妻は、ガラスコップから数滴の水が床に落ちている状態を床がべちゃべちゃであると表現する。

朝、電動シェーバーでひげをそって、洗面所にそり落とされたひげの残骸が残っていることがある。
私が掃除を怠ったと理解してもらえば大きな間違いはないであろう。
しかし、ひげって、仙人みたいなひげではない。毎日剃るのであるから、ゴマ粒、いや黒い塩のようなものだ。
それを見て妻が言う。洗面所をそんな汚しておいて、出かけるとは信じられない。
いや、出かけたというわけではなく出社したのだし、汚れというほどのことでもないと私は思い、小声で反論する。

もう一つだけ、別の例を挙げてみる。
季節外れではあるものの、公園の売店でソフトクリームを買う。
照りつける日差しの下、ヒンヤリととする甘いソフトクリームは、心地よい風と相まって、生きている喜びを存分に味あわせてくれる。
この幸せな時間を少しでも引き延ばそうと、のんびり舐めていると、コーンから滴り落ちる、溶けたソフトクリーム。
それは非情にも、スニーカーの上に舞い降りる。お気に入りの何年も履いているスニーカー。
私は、溶けて落ちたね、と言う。
妻は、靴が汚れたね、もともと汚かったし、捨てる?と聞いてくる。

この認識の違いを埋めることはことのほか困難だ。
私も何年にも渡って、妻の言葉が大袈裟であることを冷静に、時にはコミカルに、時には熱心に、指摘し続けてきたが、一向に改善の兆しは見えない。
妻が私よりもはるかに繊細で、気にしいな性格であることが理由なのだろうか、と考えたこともある。
大ざっぱに、人間関係に関してはその傾向がある。私が他人からのリアクションに鈍感であり、妻が敏感であるということだ。
スーパーのレジで小銭を探してもたついている間、店員が人差し指で台を叩いていたことは、ドラムの練習でもしていたと思えばいいではないか、と何度言っても、あなたは鈍感だけど、私は繊細なの、と主張されていることから考えても、これには一理あるかもしれない。
しかし、それは、妻が改善を要しないという理由にはなっていない。
なぜなら、その繊細さは妻に何らか望ましいものではないからだ。

漁港の旅館で活きのいい刺身を味わっているとき、妻が言うのは、美味しいね、である。
酒を飲めば、アルコール臭い、である。
感受性の鋭さを売りにする割には、それは妻にとっても私にとっても、何らプラスをもたらしていないことは明白である。

そんなこともあってつらつら考えていたら、最近、妻の大げさな表現は、不満の表明であることに気付いた。
気にいらないことは大げさに表現するのである。
それが表現だけの問題であるのか、実際に体感しているままなのかは不明である。
でも、だったら余計に、不満に思うことには鈍感であるべきではないだろうか。

年末によく行われること、と言えば大掃除である。

めんどくさいこと限りなくので、止めてしまえばよさそうなものだが、
これをしておかないと気持ちが悪い人もいて、だったら自分でお好きなだけどうぞ、
というわけにもいかず、なぜか家人が巻き込まれることとなる。
かくして、街には不機嫌な中高年が溢れかえることもできず(家で掃除しているため)
掃除中の父親から小遣いをせびれなかった子供達が寒さに凍えていることになる。
これが2014年の日本の姿である。

かどうかはともかく、掃除に比べたら、年末の買い出しは楽しい部類の行事、言いきって
しまえば娯楽の一つとなる。
かくして、街中の商店、スーバーからショッピングセンターまで、笑顔の人で埋め尽くされる
こととなっている。
実際、その混雑ぶりは、有る者に言わせると通勤電車を遥かにしのぐ、と言う。
これは人の密集度の問題ではなく、どれだけ他人の吐いた息を肺に吸い込むか、で比較した
場合の話だそうで、通勤電車の中では多くの人が自分を殺し息をひそめていることに
起因するのだという。

どう比較し、どう並べ立て、どうしてみたところで、年末の買い出しの楽しさに異論をはさむ余地
はない。
父親は家事(多くの日本の男性は、興味深いことに、家事を「妻の奴隷となること」と
定義していることが多い。彼らは、平日、専業主婦が一人で行う家事を、おままごとと
呼ぶことがある)からの解放感に浸りきっている。
母親はお金を使う、という喜びに我を忘れ、子供達は何とか自分の欲しいものをカートに
しのばせようと必死になっている。
一人ひとりが自らの欲望に忠実に生きている姿、これを見ずして1年を終えてどうする、
と思ってしまうのは私一人ではあるまい。

よいお年を。

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