忍者ブログ
東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

少し時間が経ってしまったが、西東京市市民祭りのパレードは今年も大盛況だった。

サンバにおっさんのカメラマンが連なる光景も見慣れてきた(今年のサンバは、お兄さんが踊っていて、より楽しげだった)。

会場で出し物をされる団体はもっとパレードに参加してもいいように思うのだが。

例年より少し参加者が少ないように思ったのだが、気のせいだろうか。
参加資格が厳しかったりするのだろうか。

 

さて、週末は刺身を食べようか、という話になった。

検討した選択肢は大きく3つ。

 

(1)スーパーで買う

(2)魚屋で揃える

(3)角上魚類まで行く

 

最も手間が少なく、お金もかからないのがスーパー。

ひばりヶ丘駅周辺では、南口の西友、北口のオリンピック、北口から少し歩くライフ辺りが選択肢か。

どこも大きく違わないと思われ、家から一番近いところを選んでおけばいいのではないか。

 

少し手間がかかるが、魚屋に行けばより満足する刺身を手に入れられるだろう。

こちらの選択肢は、駅から近い順に、魚松(インテージの裏)、魚考(いこいの森公園の隣)。

魚考は、持ち帰り寿司の有名店であるが、刺身も扱っている。もちろん、寿司同様、安くて美味しい。

池袋まで出るのは少々めんどくさいので、私は検討しない。

今回、魚松さんは残念ながらお休みだった。

 

角上は、小平店。

車で行くことになるが、イオン東久留米の脇を抜けられれば、それほど道が混まずに、時間がかからず行けるのがいいところ。

今回は、市民祭りで予想外に時間がかかってしまったため、こちらも見送り。

 

と言うわけで、西友に行くことになった。

西友の魚売り場なんて、スーパーでしょ、と思うでしょ?

その通りなのだが、その日の目玉で扱っている魚は、店でさばいたブリとかもある。

鯛があったので、そちらをチョイス。

 

柵で売っている鯛を、ちょっと刺身で、残りをしゃぶしゃぶで食べる。

しゃぶしゃぶは、昆布と鰹節で出汁を取って、調味料は酒と塩で良い、と調べたレシピにあったが、付けだれが欲しいところ。

ポン酢でもよし、めんつゆも美味しかった。

 

汁は最後、雑炊にするのもいいが、そのまま白米に掛けてお茶漬けにするのもうまい。

お腹がいっぱいになってから、汁をちびりちびりと舐めるのもまたよい。

 

酒と肴を求めて、美味しい店で外食することも楽しいが、自宅で美味しいものを食べられるのであれば、そちらの方が豊かだ、と今の私は思う。

そういえば、市民祭りが終わった後の会場、いこいの森公園の端の方で、ワインを飲んで話しているカップルがいた。

40代半ばであろうか、楽しそうに語らっている様子は、まさに幸せのカタチは人それぞれ。

口に入れるもの、目に映るもの、隣にいる人。

移ろいゆく一瞬にしか幸せは存在しないが、幸せの記憶はきっと色あせないで、続いていく。

 

リア充であることなんて決して難しいことではない。

何者かになること、どこかへ向かうことと、その過程を楽しむことは両立するのだ。

そして、その楽しみは、自分で認めてあげない限り、楽しみとはならないのだ。

 

そんなことを思った週末。

PR

寒い、さむい、サムイ。

週末に意識してもしなくても、口を突いて出てきたのは、この3字。

石神井公園で足こぎボートを漕いでいた時にも、大泉中央公園に自転車で向かっていた時にも、もう冬だね、と思いました。

 

冬になると食べたくなるのが、鍋、ではないでしょうか。

子供のころ、鍋なんて、そんなにうれしいメニューではなかったような気がしますが、大人になった今、冬は鍋でしょ!と全力で誰彼かまわず訴えて回りたい気持ちでいっぱいです。

みんな大好きなーべナベの魅力を3つ、ご紹介したいと思います。

 

1.用意するのが楽ちん

材料を用意して、鍋に放り込んで火をつけるだけ。

しかも、用意の大半は、切るだけです。

調理時間こそ長いものの(煮込む時間がかかるため)、準備の手間が少ないことから、負担が少ないです。

 

楽ちん、ついでに、料理は品数が増えると、調理の順番を考えたり、下準備が増えたりします。

鍋なら、一品でオッケー、という点が有難いです。

もちろん、副菜を用意してもいいのですが、副菜はちゃちゃっと作れますし、作り置きを用意しておくこともできます。

 

2.温かい食事で身も心もほっかほか

準備が終われば、食べるだけ!

その料理としてのナベの魅力は、なんといってもあったかいことです。

我が家では卓上コンロを使うため、食べ始めから、だんだんと冷めていくことなく、ずっと暖かい料理をつまむことができます。

 

3.後片付けも楽ちん

品数の少なさは、後片付け、特に食後の皿洗いのラクチンさに繋がります。

しかも、鍋料理って、基本的には油を使わず、肉を入れて出てくる油も、固まる前に洗い流せるため、洗い物が楽です。

 

と、いいことづくめな鍋料理、日本に生まれて(日本だけの料理ではありませんが)本当に良かった、と実感します。

ただ、子供のころは、鍋ってあまり好きではなかったんですよね、その理由は、ズバリ、美味しくないから。

素材の出汁が溶け合うハーモニーって、上手く行った時の話で、何も考えずに材料を放り込めば、何も考えていないんだなー、って味付けになります。

 

で、この問題を解決してくれる力強い味方が鍋の素です。

スーパーでこれだけ売っている、売れているのを見ると、昔のナベってやっぱりあんまり美味しくなかったんじゃ、と百万の味方を得た思いです。

 

美味しい鍋の素はたくさんありますが、我が家の一番人気は、赤から、です。

ネーミング、甘辛な味付け、辛すぎないのに赤く染まる表面、いずれも、我が家で熱烈に支持されて人気は衰えを知りません。

で、今年ではなく、今シーズンの赤から初戦が週末、我が家で食されたわけですが、半年ぶりって、結構、いろんなことを忘れてしまうのですよね。

なので、備忘も兼ねて、赤から鍋の素の美味しい食べ方、我が家編を記しておきたいと思います。

 

1.材料は、豆腐と油揚げを最初に入れる。

味をしみこませるためです。

他の材料もですが、我が家の土鍋は、コンロの一番弱火でも、ずっとつけておくと焦げ付きます。

適度に混ぜてあげる必要があります。

 

2.次に白菜

豆腐と油揚げは、小一時間、煮込んであげるといいでしょう。

その後、白菜を投入します。

この時点で、火を消してしまいます。

 

3.準備の最後に肉、長ネギ、もやし

肉と長ネギは30分前、もやしは10分前に投入。食べる5分前には再度点火、と言う流れです。

白菜から続く材料は早く入れすぎると(煮込みすぎると)美味しくありません。

適度に歯ごたえが残るようにして挙げるためには、この時間配分が重要です(なお、我が家では長ネギにしっかり火が通っていないと食べられない者がいるため、長ネギは少し長めに煮込んでいます)。

 

4.モチは食べている最中に投入

赤からの素は、味が濃いため、モチが美味しいです。

溶けてなくなってしまわないよう、投入場所を選ぶこと、そして、どこまで軟らかくなったかを、モニタリングする必要があります。

 

5.締めは冷凍うどん

リゾットや雑炊にするには味が濃すぎるように私は思います。

そのため、うどんがおすすめです。

ラーメンは、好きずきかなあ、悪くはないですが、特別よくもない。

 

今年は何回、赤からのお世話になるんだろう。

寒い季節の楽しみが多い、ってことは人生が豊かになることなんだよねー、と思います。

大げさですが。

雑林で遊んでいた3歳の子供が転んだ拍子に落ちていた栗のとげに手をついてしまい、泣きじゃくりました。

 

という話を聞いてどんな感想を持ちますか?

・親がしっかり管理していないから、子供に痛い思いをさせてかわいそうだ、でしょうか

栗が落ちている場所に子供が入れるようにしていることは問題がある、でしょうか

・自然が残っていてうらやましい、でしょうか

 

子供が怪我をする可能性のある場所から遠ざけたい、親としては当然、まず最初に考えることです。

車が来るかも知れない道路や駐車場では手をつなぐでしょうし、滑り台に上れば万が一落ちた時にも受け止められるところに移動します。

それでも、全ての危険を避けてあげることは、していません。

ブランコでまさか手を離さないよね、離して落ちても重体くらいで済むよね、みたいな判断で乗らせています。

小川で転んでも水飲んでお腹下すくらいで済むよね、みたいな判断で入らせています。

 

判断に迷うのは、雑林で遊びたいと言われた時です。

何より怖いのは、突き出した枝が目に入り失明することです。

特に転んだ時に地面に落ちているもの全てに対応することはできません。

だから一切、そのような場所には入らせないべきなのでしょうか。私はそこを悩むのです。

 

人生は常にリスクと隣り合わせです。

道を歩けば、たとえそこが車道でも、交通事故の可能性があります。

電車に乗れば脱線するかもしれません。

建物の中にいれば地震で倒壊するかもしれません。

そして、林に入れば、枝が目に入るかもしれないのです。

 

もちろん、私たちはリスクの大小を見極めているでしょう。

そして、そのリスクに見合った成果があるのかも。

行動は、その両方を考慮して決定しているはずです。

 

私は、判断の度に、リスクと成果を考えています(それは無意識かもしれません)が、自身の判断よりも多くを、他人の判断に頼っていると感じています。

例えば、公園にある遊具は、ほとんどの子供がけがをしないように作られているのだろう、とか、明確に立ち入り禁止と書かれていない場所は入ってもいいのだろうとか。

 

いや、自分で考えて生きるって大変だな、と。

資産運用におけるリスクとリターンの話を書きたかったのですが、疲れてしまいました。

いや、資産運用って、1円でも貯金があれば必ずやっているわけです。日本円の預金で運用している、という意味において。

それって言葉の定義の問題ではありません、運用に伴うリスクを取ってる状態である、と言うことです。

また改めて元気なときに書いてみます。

不思議の国、ニッポン。

責任者が不在で、空気で物事が決まっていく、東京オリンピックの施設周りで盛り上がっている問題です。

しかし、当事者が責任感を持っても、周りが責任を持たせないということもあります。

その良いお手本があります。

 

産経新聞が、「生前退位」と言う表現を止め、「譲位」を使うと表明。

 

経緯の確認から。

皇室典範では、誰が天皇になるか、を決めています。

ざっくり言えば、前の天皇がなくなると、その長男が天皇になる、と言うことです。

制度はそうなっているところ、NHKが、天皇陛下は、なくなる前に天皇を代わってもらってもいいのではとお考え、というスクープを行いました。

天皇陛下からも、高齢になってきたことだし、天皇の務めを果たせないことが心配されるので、なくなったら、ではなく、生きているうちに、天皇を代わってもらうことも考えられるよね、というご発言がありました。

 

生きているうちに天皇が代わることを、マスコミは「生前退位」と報じてきました。

細かい議論は多々ありますが、概ね、じゃあ生きているうちに天皇が交代することを考えよう、という流れになっています。

そして、1020日、皇后陛下がコメントを発表されます。

内容は、生前退位、と言う表現を新聞で見て、「衝撃を覚えた」というもの。

これを受けて、産経新聞は、生前退位、と言う表現を止め、譲位の表現を使うことにした、ということです。

 

私には2つ、違和感があります。

一つは、退位と譲位は違う事柄なんじゃないか、ということ、もう一つは、皇后様のご意向についてです。

 

■退位と譲位

体位と上位、の方が楽しい話になりそうですが、それはさておき。

 

退位と言うのは、やめることです。

天皇が天皇であることをやめる、と言うことです。

これに対して、譲位と言うのは、誰かに代わることです。

代わるだけではなく、誰に代わるのかを指名するイメージがあります。

恐らくは、これが「譲位」という言葉の使われなかった理由なんだろうと思います。

 

一方で、天皇陛下のご意向(あるいはお言葉)としても、「譲位」だった、という報道もあります。

これは、天皇陛下が今回の一連のお考えの表明の中で、天皇というものが途切れず日本国民に寄り添っていくべきもの、とされていることと整合的です。

つまり、自分が(あるいは天皇の地位にある人が)やめることに主眼があるのではなく、次の人に引き継ぐことが主眼だと思われるのです。

そうだとすると、「譲位」が良かった、というよりも、「退位」が嫌だった、になります。

 

「譲位」は後継者の指名、というやっかいなイメージがついて回る(結果として、議論が進展しない)、一方で「退位」は、天皇陛下のご意向にはそぐわない。

私は、普段使わない、退位だ譲位だという議論をするよりも、もっと分かりやすい言葉にしてほしいです。

交代、とかね。

引き継ぎ、なんていうのもあります。

個人的には、チェンジ、がいいと思います。オバマ大統領も退任されるわけですし、もう今さら使っても文句はでないでしょう。

 

話がそれますが、産経新聞の見解では、「生前」が死後とセットになってイメージされる、とも述べられています。

宮内庁関係者が皇后さまのご意向を推し量ったとも報じられています。

もちろん、嫌だという人がいれば、その言葉は避ければいいと思うのですが、生前が死後とセットになっている、という話と、だからイメージが悪い、は繋がらないように思います。

生前贈与、なんて言葉もありますし、これが営業の提案資料に記載されて流布しています(つまり提案を受けた顧客が不愉快に思う表現ではない、と言うことです)。

 

■皇后さまのご意向

以下が本題です。

今回、皇后さまのコメントは(口頭ではなく)文章で出されており、全文を確認することができます。

8月に陛下の御放送があり,現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より,皇室の重大な決断が行われる場合,これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり,その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので,皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も,謹んでこれを承りました。ただ,新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれま8月に陛下の御放送があり,現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より,皇室の重大な決断が行われる場合,これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり,その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので,皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も,謹んでこれを承りました。ただ,新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。


この文章から、「生前退位」の表現がちょっとねえ、という気持ちをくみ取ることはできます。

それを否定するものではないのですが、別の読み方もできます。

例えば、話は前々から聞いてはいたものの、新聞の活字を観たら、改めてびっくりした、とも読めます。

夫の離婚の話し合いをして合意したものの、友人から、あなた離婚するんだって?とメールが来ると、改めてびっくりしたり悲しくなったりしますよね。

離婚という表現に換えて、お互いに老後の面倒はみないってことになったのね、というメールであれば、それはそうだなー、と思いますし、それがショックだったり、悲しみを呼び戻したりする可能性もありますよね。

 

つまり、文章が明確ではないのです。

これはコメントがなってないよ!と批判する意図ではなく、責任をもって発言できない、という立場に皇后さま(というか皇族の方々)を置いていることが原因です。

明確ではない文章を、その意図をくみ取りながら行動する産経新聞は実に日本的な対応をしていると私は思います。

 

■天皇制の在り方や今後の方向性について

私は、一方で、天皇陛下という個人に負担がかかる今の天皇制が疑問です。

皇族に生まれたがために、人生を好きに選択できないのは、気の毒に思います。

今すぐなくせ、と強く思っているわけではありませんが、天皇陛下本人のご意向も踏まえて、より良い方向に変えていくことは望ましいです。

 

その際、天皇陛下のご意向は、やや広めに忖度されるべきではないでしょうか。

何故なら、そもそもご意向を自由に表現されるお立場になく、そしてそれを十分に自覚されていると思われるから。

今回の問題提起は、譲位についてでしたが、そもそもの問題意識は、天皇の務めが途切れることなく、行われることです。

そのためには、天皇という個人ではなく、皇族や天皇家(家族)を象徴の地位に据えるも一つの方法です。

多くの国民が天皇陛下に期待していること、そして天皇陛下がご自分の職責だと思われていることは、天皇という地位に紐づくものではなく、天皇陛下とそのご家族によってもたらされている、と思うからです。

 

いずれにせよ、今上天皇が代わられた暁には、楽になっていただきたいものです。

米、という日本人として知っておくべ食品についても、まだまだ知らないことがたくさんあります。

その一つに、クズ米、と言われる存在があります。

これは、炊いて食べるごはんとしては味が落ちる、粒がそろっていない、というお米でも、加工して利用する分には問題ないので利用されているお米のことです。

例えば、せんべい、なんかは米の種類があまり問題にならないのでぐず米が使われる、と言った次第です。

 

電通の痛ましい事件を受けて、だけではありませんが、労働時間が短縮される方向、長時間労働が許されない方向に日本社会は向かいつつあります。

やるべき仕事の総量が変わらず、労働時間が短くなれば、従業員を増やことになります。いや、なるはずなんです。

労働時間を短縮すれば、企業(も官公庁も)の人件費を削減することができるはずなので、この点からも従業員は増えるはずです。

 

これを個々の労働者から見れば、今まで勤めていた会社に同じように務めていると給料が減ることになる、と言うことです。

そのため、副業というか、今までの一つの会社に勤めるだけではなく、複数の仕事を掛け持ちできるようになります。

できる、というか、せざるを得ない、と言う人も多いはずです。

 

このような社会が実現するとどういうことになるのか、についての予想です。ほんの一部ですが。

全体として見れば、同じ時間に働ける人の数には上限があるため、より多くの人が職に就けることになります。

また、ある仕事の条件が悪く、別の仕事の条件が良い場合、誰かが苦しんで、誰かが楽をしていた、という状況が、両方ともほどほどに苦しく(楽に)なる可能性があります。

一度、福利厚生の充実した企業に就職すれば楽ができ、そこに就職できなければブラック起業で苦しむ、ということが是正されます。

 

複数の仕事をすることは、誰もがより多くの選択をすることになる結果、より不効率になる可能性があります。

西武池袋線沿線に住んでいる人が、今まで池袋の職場に勤めていたのに、掛け持ちする職場は新宿でしかみつからない、ということも起こる、ということです。

 

仕事は、人が行うことであり、それが誰なのか、というのは重要です。

どんな仕事なのか、という点も重要です。

でも、雇う側、雇われる側ともにもっと望ましい状態にすることは、できますよね。

 

問題は、どうやってそれを実現するかですが、一義的には、多くの雇用情報を持っている人(会社)が調整すればいいわけです。

具体的に、マクドナルド、を考えてみます。

同じ職場であれば、業務内容は大きく変わらない(はず)と仮定します。

そうすると、自社で働くアルバイトが、どこに住んでいて、どこの店舗に勤めているか、の情報を持っているわけです。

もちろん、自宅に一番近いところが一番望ましい職場、とは言いきれないのですが、アルバイト同士の配置転換を、本人の同意を得て、行うことが考えられます。

 

もっと広げてみると、コンビニ各社のアルバイト、なんていうのも、共通のデータ基盤があれば、適正な配置が可能となる可能性があります。

これって、現在でも、この日はたまたま午後から池袋に出るので、池袋のお店でアルバイトできるといいんだけど、なんて要望があってもおかしくないように思うのですが。

 

ニーズがあってもサービスがないのは、誰が費用負担するのかが決められないから、というケースがあります。

この場合も、セブンとローソンとファミマでバイトの適正配置ができるとして、誰がそれを作るお金を出すのか、という事です。

 

私たちの持ち時間は有限です。

せっかくの持ち時間が少しでも有効に活用されるようなサービスが出てくるといいなあと思います。

カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
mimomemo
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター

Copyright © [ はちこくやまから見える世界 ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]