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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

図書館で集中するのが苦手だ。昔から苦手だった。

何度も勉強するために図書館に足を運んだが、一向に勉強しない。

眠たくなるか、いたたまれなくなるのだ。

 

逆に集中できる場所は、自宅の自分の机だったり、喫茶店だったりした。

私はずっと、その理由は、私が喫煙者だからだと思っていた。

図書館はたばこが吸えない、だから集中できないのだ、自分の家や喫茶店はたばこが吸える、だから集中できるのだと。

 

タバコをやめてしばらく経って振り返ってみると、いや、今の自分を見直してみるとかな、この考察は間違いだったようだ。

私は未だに図書館では集中できなくて、喫茶店なら集中できるのだ。

他に集中できる場所はファミリーレストラン、電車の中、公園のベンチである。

逆に集中できないのは、深夜、家族が寝静まった後のリビングだったりする。

 

お気づきかと思うが、私にとって集中できる場所、というのは周りに人がいる場所、そしてある程度、騒々しい場所なのだ。

多分、というのは試したことがないのだが、騒々しすぎる場所は無理である。

居酒屋やカラオケボックスで集中できるとは思われない。

そして静かすぎる場所もだめなのだ。自分が音を立てないことにとらわれすぎてしまうのである。

 

この発見はちょっとしたショックであった。

一般には、集中したければ、雑音の無い空間に身を置く、と思われるのではないだろうか。

私も当然のようにそう思っていた。

なのにそれが違っていたとは。

 

ついでに言うと、自分の好きな音楽がかかっていると集中できる、と言う話も良く聞く。

私にはこれもなく、音楽はかかっていてもいなくても関係がない。

音楽を聴きながら勉強するくらいなら、テレビがついた部屋で勉強した方が集中できる。

 

人それぞれとか、個人差がとか、考え方として理解していても、自分を無意識に一般的な人に当てはめていることは多い。

ずっと異性が好きだと思って生きてきたが、歳を取ってから、同性が好きだと気付いた、と言う話には親近感を覚える。

 

騒々しい場所にいるメリットは、私にとっては集中できることだけではない。

集中力の途切れたときに聞こえてくる話が、とても面白いことが多いのだ。

それまで集中していた事柄からまったく違った話なので、新鮮なのだろうと自分では思っている。

 

昨日は、居心地のいい(あくまで私にとって)喫茶店で、ふと気づいたら2時間作業しており、近くに男性5人、若者が2とおじさんが3人、座って話していた。

おじさんたちは店長さん、若い二人は従業員のようで、同一業態で複数店舗を経営しているらしい。

業態がとんでもなく特殊なのだが、グループの一番偉い人がグループ全体の利益を上げろとしきりに言っている、にもかかわらず特定の店舗の運営、しかも儲かっていない店舗の運営にかかりっきりで、結局、口ではグループと言いながら、お店をやっているのが好きなだけなんだよなーという愚痴を語り合っていた。

外国人を雇った際の実際のトラブル事例や、投資効率のいいお店の立地条件等、その業態をやりたい人にはお宝ざくざくな話であった。

 

話しているのはもっぱらおじさん3人で、二人の若者は帰りたそうにしていたのが印象的だった。

今、私が君の立場だったら、猛烈に集中できるのに、と思ったが、たまに話しかけられたりしているので、難しいんだろうなあ。

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子供のころ、一日一善とは何とも簡単なことだと思っていた。

たった一つ、いいことをすればいいのか、と。

 

大人になっても、やはり同じように思っている。

一日に一ついいことをするなんて、簡単なことだと。

 

Googleで「一日一善」を検索すると、一善って何をすればいいんだろう?みたいなことがたくさん出てきてびっくりする。

家から一歩出れば、善行なんて腐るほどできる。

歩いているときに、他人に道を譲るとか。

エレベーターで後から来る人のために扉を開けておくとか。

 

もちろん、一善をどう考えるかによっては、いくらでも難しくなりうる。

道を譲るだけで一善ではないなら、寄付をすれば一善なのか。

お金を渡すだけで一善ではないなら、ボランティアをすれば一善なのか。

等など、行き着くところは、自分の生活のどれだけを削って、善行に充てなければならないのか、充てるべきなのか、という話である。

 

ただ、大人になった、なってから相当の時間が経っている私は、本日の一善をどうやってこなそうか、を考えるよりもむしろ、どうやって悪行せずに一日を過ごせばいいのか、に頭を悩ませている。

気を使いながら生きている、が正確だろうか。

「悪行」というのは、暴力をふるったり、お金を盗んだり、自尊心を傷つける言葉を使ったり、に限られない。

善行が他人の喜ぶこと、を意味するのであれば、悪行は他人の嫌がること、を意味するのではないか。

 

私が行った本日の悪行とは例えば、以下のようなことである。

・上司の振ってきた、今日は大学の同級生とランチに行くんだよ、というどうでもいい話に心ここにない返事をしてしまった

・妻がしまい忘れていた指輪を目立つところに移動させ、気づかないふりをすることができなかった

・レジを打ち間違えた店員さんからレシートご入り用ですか、と聞かれて、はいと応えて受け取ってしまった

 

いいことをすれば悪いことは相殺されるのか、は対象が同じ人間であっても、力関係によって答えが変わる難問で、別の人間であれば100%殺されないと考えるべきであろう。

と言うわけで、善行を積むような余裕はなく、悪行を積まないように気を付け、それでも避けられない事柄に平身低頭、匍匐前進でやり過ごしているのである。

 

さて、善行に話を戻すと、テクノロジーの進化とともに、善行の方法も多様になってきている。

これは、従来は、概念は知っていても、実際にどうやったらいいのかその方法が分からないような善行も、ネットが普及し、情報収集が手軽になったことで、より参加しやすくなった一面がある。

ボランティア、というのは私が知る限り、従来は、誰かに声をかけてもらって参加するものであった。

お隣の奥さんが亡くなって子供を抱えた旦那さんが葬式を仕切るのは大変そうだから炊き出しや受付を手伝ってあげよう、といったようなものである。

いや、暗い例えで申し訳ない。

これが、東日本の震災から災害ボランティアが一般に認知されるようになり、また、一般のイベントでもボランティアの参加を募っているものが多くみられるようになってきている。

このようなボランティアに参加する人が増えてきているのは、いい人が世の中(日本)に増えたから、というよりも参加の方法が分かりやすく、参加しやすくなった、ということが大きい。

あるいは、養子縁組についても、従来は話として制度があることは知っていても、実際にどう動きだしたらいいのか分からなかったものが、最近ではネットで調べれば比較的簡単に、入口にたどり着くことができるようになっている。

 

テクノロジーの発展が、従来から行われていた善行の、方法の多様化をもたらした面もある。

その代表が寄付、であろう。

 

寄付は昔から誰でも募金箱にお金を入れるだけで行えるものであったが、現在では、クラウドファンディングから、料金の一部が自動的に寄付されるものまで、様々なサービスが提供されている。

サービスの多様化は、一つには、寄付を受ける対象の多様化に繋がっている。

記憶ベースで恐縮であるが、幼いころ、寄付と言えば、恵まれない人に愛の手を、というその恵まれない人も、明日の食糧がない人に、みたいな、本当に困った人向けのものである、という認識だったと思う。

もちろん赤十字だとか、あるいは神社の改修なんかに寄付する人もいた(そういうことがあるのは知っていた)が、それはお金持ちがやること、みたいな感覚だった。

それが、震災への寄付や、世界の貧困者への寄付はもちろんまだまだあるものの、もっと小さな救いの手を求めている人たち、小さなは私の価値判断ではなく、少額の救いを求めてる人たちでも、寄付を受けとることができるようになってきている。

 

また、最近の寄付は、寄付を受けた側が寄付を受けた後の状況について、報告することが増えているのも特徴であると思う。

詐欺を無くすという意味では良い取組なのかもしれないが、自分が寄付したお金を使われ方に関心を持つ人が増えてきた、と言うことであれば、世知がないなとも思う。

 

何はともあれ、12月は「Giving December」寄付月間である。

以下のサイトは、特定団体への寄付を求めるものではなく、年末に寄付について考えてみてほしい、というサイトである。

http://giving12.jp/

年末に考えてることがまた一つ増えてしまうが、楽しいことで頭を悩ますのは喜ばしい。

どうやって他人のしっぽを踏まないようにするか気を付けるよりははるかに楽しいのではないか。

バレーボール男子日本代表の監督に内定している中垣内裕一氏が交通事故を起こして謝罪会見を行った。

中垣内氏が人身事故 はねられた警備員が重傷 業務中社用車で

 

交通整理の警備員を轢いたこと、バレーボール協会が代表監督に内定したことを取り消す可能性もあることを報じている。

事故自体が痛ましいことは言うまでもない。

ただ、交通事故を起こしたから、と言う理由だけで、組織(この場合はバレーボール協会)の処分が行われることには違和感がある。

事故は誰にでも起こりうるし、適切な処理がなされるのであれば(刑事法上の処罰や、民事法上の損害賠償、法的な論点ではない謝罪等を想定している)それ以上の処分を組織から受ける必要は無いように思える。

日本代表の監督はタレントと同様、イメージも大切なのかもしれないが、その意味では、不倫騒動などでもともとイメージのよくない人選である。

中垣内氏本人が猛省する、と述べている点も考えると、運転者側に重大な過失(居眠り等など)があったのかもしれない。

詳細が分からない以上、なんともすっかりしない話である。

 

いずれにせよ、できるだけのことをして、交通事故で人を轢くことが無いようにしたい。
そして、ひくこと、なのだが、、、

私は風邪をひくことがある、辛いのでひきたくはない。

私は辞書を引くことができる、でもめんどくさくてあまりやりたくはない。

私は、自分でコーヒー豆を挽くことはない、そんな生活には憧れている。

私は恐怖に立ち向かうよりも退くことが多い、チキンである。

私は異性の気を惹く可能性がある(生きている以上)、大いに歓迎したいところであるが、これまでに片手で足りるほどの観測結果しか残してこれていない。

 

ひけないことばかりである。

そして、私は楽器が弾けない。

 

楽器が弾けない、のは、場を盛り上げられない、のと同じで、本来はできるできないと言える事柄ではない。

飲み会で輪の中心となってトークを展開したことは生涯で一度もなかった、としても、くしゃみで場を和ませた、ようなことは誰にだって経験があるはずだ。

上手下手はあっても、できない、と言うことはありえない。

その上手下手と言う技術も明確に測れるものではない。

 

楽器も同様で、音を出すくらいは誰にでもできるし、その音の良し悪しなんて、聞き手の数だけ判断があるはずだ。

楽譜をさらえるか、を技術レベルととらえるべきではない。それは分かりやすい技術の見分け方の一部に過ぎないからだ。

 

では、なぜ、私は自分が楽器の弾けない人間だと思っているのか。

それは、ピアノで猫ふんじゃったを弾いても、何も楽しくないからだ。

タンバリンを叩くと、気分が高揚して踊りだしたくなることがないからだ。

その結果、どうしても断れなくて演奏に参加するとき、以外に楽器を手にしないのである。余計に楽器が楽しくなくなる。

だから、楽器が弾けない、と言わざるを得ないのだ。

 

こういう話をすると、練習して上手くなると楽しくなってくるよ!と反応されることがある。

楽器に限らずスポーツでもそう言われることが多い。

私も全面的に賛成する。

練習することで楽しくなることがある、それも結構ある。

その上で、その楽しさって楽器を弾く楽しさ、自分で音を生み出す楽しさ、他人の音と調和させる楽しさ、とは違うんじゃないかと思う。

そのような楽しさに目覚めることもあるのだろうが、多くは、技術の向上する楽しさ、即ち達成感を得られる、のではないだろうか。

達成感を得るというのは、純粋に音をだすことが楽しいとは遥かに遠く、極論すれば反対にあるもののような気がしてならない。

 

この仮説の当否はさておき、達成感ではない楽しさを感じられるものをここ最近、探っている。

読書であれば、結末が気になり、ページをめくる手を止められない本よりも、読んでいること自体が楽しく終わってしまうのが残念な本に出会いたい。

 

そういえば、私にも一つ、ひけるものが見つかった。

幕を引く。

では。

一人暮らしのアパートに彼女が初めて遊びに来た。

付き合って3か月、唇に触れたことはある。それ以上はない。

趣味の手料理をごちそうすることになっている。

食後の片づけを二人で終わらせ、最近面白い動画があってさ、とスマホでYoutubeを開こうとしたところ、誤って、履歴から別の動画を開いてしまう。

お気に入りの一人で何度も見た、あの動画を。

何故、このスマホはこんな動画を覚えているのだ、のたうち回るっても時が戻ることはない。。。

 

 

私たちは意識せずとも、これから起こるであろうことを想定して行動している。

朝起きて会社に向かう途中、駅まで歩いて電車に乗り、何駅で乗り換え、目的の駅からまた歩く。途中のコンビニで朝食用にヨーグルトを買おう、くらいはぼんやりと考えているだろう。

 

ところが、想定外の事柄、は常に起こりうる。

電車が遅延する、途中でトイレに行きたくなる、コンビニのレジが混んでいる、等々。

想定外の結果、会社に遅刻するくらいであれば頭を抱える程度でいいのかも知れない。

しかし、真剣に対処しなければならない危機もある。

では、想定外に上手に対処するためには、どうしたらいいのだろうか。

 

対処方法を解説する前に、想定外への対処には前提条件があることに注意が必要である。

それは、即時に対応しなければならない、ということ。

時間に余裕があるときのトラブル対処とは全く違う、と言うことを理解しなければならない。

具体的には、妻から、キャバクラの名刺がスーツの胸ポケットに入っていたんだけど、と問い詰められた際、それをメールで受けたのか、直接目の前で言われたのか、は対処の方法が異なり、ここで対象としているのは後者であることだ。

 

■ソリューションは3つ、「時間」「事態」「準備」

想定外に対処するためには、まず落ち着いて考えてみることが必要だとか、悲観しないで乗り切ることが必要ですとか、精神論はここでは対象にしない。

具体的なソリューションは、想定外で何を困っているのかを見直すことで見えてくる。

まず、想定外に対処が必要だということは、先に前提として述べた通りで、即時に対応する必要がある。これを即時で無くす、つまり「時間」に働きかけるのが第一のアプローチである。

次に、困っているので、解決策が浮かばない状態である。解決策を考える、つまり「事態」に働きかけるのが第二のアプローチである。

最後に、そもそも思っても見なかったことが起こったことが問題なので、事前に思っていたこと(そして対応策も考えて置いたこと)であれば想定外の問題にならない、という「準備」をしておくのが第三のアプローチである。

 

■アプローチ1:時間に働きかけるとはどういうことか

想定外への対処は、まず、「今」困っているを、今ではなくすことから始めるべきである。

具体的には、そもそも、今すぐに対処しなければならないのか、まずは一度考えてみる必要がある。

停電でエレベーターが止まった、ライトも切れて真っ暗になった、という場合、今すぐすべきことは恐らくない。

その結果、想定外への対処にはならなくなる。

 

別の事例としては、家に帰って自分の部屋に行ってみると、ベットの下に隠しておいたものが、母親によって机の上に移動されている、こともある。あるいは、明らかに掃除した跡があり、見られた形跡がある、でもいい。

この場合も、すぐに何かをする必要はない。台所で夕食の準備をしている母は間違いなく反応をうかがっているはずだが、夕食までは顔を合わせる必要がない、つまり時間があることを自覚しよう。

 

そして、今すぐに何かをしなければならない場合、こちらは面接で想定外の質問をされたような場合、には、時間を稼ぐべきである。

面接での時間の稼ぎ方はよく知られているように、相手の質問を繰り返すこと、少し時間をくださいと頼んでみること、などがある。

数秒でも時間に余裕を持たせることのありがたさは、筆舌に尽くしがたい。

 

別の事例として、妻から風俗店の会員証(自分で署名済み)を目の前に突き付けられた場合の時間の稼ぎ方は、抱きつく、である。

なんならそのまま押し倒してしまえばさらにいい。

 

長くなってきたので、アプローチ2、3については、各自お考えいただきたい。

 

なお、本日の昼食はチェーンの居酒屋で、豚の生姜焼き定食を注文したのだが、味噌汁は、味噌を入れ忘れたらしくお湯、白湯であった。

想定外はどこにでも転がっている、このことは覚えておいて損はない。

その建物の外へ出る。

以上です。

 

ある程度の時間、滞在していることを前提とした場所があります。

喫茶店、レストラン、居酒屋などのほか、マッサージ店、床屋・美容室、マンガ喫茶、風俗店などもそうです。

このような場所で火災報知機が鳴った場合、人(お客さん)は大きく分けると、3つの行動のいずれかを採ります。

(1)何もしない、(2)逃げる、(3)店員に状況を聞く

 

火災報知器が鳴った場合、一番安全なのが、(2)逃げる、であることは疑いありません。

命を守るためには、建物に閉じ込められないよう、建物の外へ出るべきです。

注意点は2つ。エレベータを使ってはいけないことと、階下の火事で煙がひどい場合には、上へ逃げることも検討すべき、ということです。

 

実際には、何かをしている最中にとりあえず外に逃げる、という選択は意外と採れないものです。

店員さんでも、一緒にいる友人でも、逃げない人がいる中で、逃げよう、と言うことは中々勇気がいりますし、火災報知器は結構な確率で誤作動なので後で大騒ぎしたことに恥ずかしい思いをすることも多いでしょう。

 

火災報知機が鳴っても何もしない(1)の対応が批判されることがあります。

危機意識が低いのではないか、とか。

火災報知器は誤作動が多い、というが理由の一つなのでしょう。

では、本当の火事で火災報知器がなっている場合、ただちに非難することが安全であるとしても、ただちに非難しないといけないものなのでしょうか。

言い換えると、火災報知器は、火災になりそうな段階でなるのか、火災になってしまってからなるのか、という問題です。

 

火災報知器には、何をもって作動するのか、の方式がいくつかあり、例えば煙を検知してなるもの、熱を感知してなるもの、火から出る赤外線などを感知してなるもの、などがあります。

特に熱を感知するものは、相当の高温にならないと作動しない、という説明もあります。

自分がいる場所の火災報知器がどのようなものであるか、自宅や勤務先でもない限り、把握していることはまずないでしょう。

とすれば、安全のためには逃げておくのが得策、ということになります。

 

ただし、財団法人日本防火協会のホームページでは、火災報知器がなったら、まず注意しながら、状況を確認すべき、高齢者や障害者、子供は先に避難させるべき、と書かれています。

言い換えると、自力で逃げられるような大人は真っ先に避難する必要はないとも読めます。

 

以上をまとめると、火災報知器がなった場合、可能であれば建物の外へ避難する、自力で避難できる大人であれば、それほど急がなくても大丈夫、です。

 

ここからが本題なのですが、火災報知器が作動して、すぐに避難しない場合でも、まずは状況を確認する必要があります。

本当の火事なのか誤作動なのか、と言うことです。

管理人の常駐していないようなマンションであれば、自分でなっている場所を確認しに行くでしょう。

一方で、自分が「客」としている場所では、店員に状況を確認してもらうことが一般的です。

 

問題は、目の前にいる店員が状況を把握している可能性は非常に低い、と言うことです。

建物のどこかで(例えば別の階で)火災報知器がなっているときに、目の前にいる人(ウェーターさんなど)が状況を把握しているはずがないです。

そのため、目の前の店員さんに確認すべきことは、誰かが確認作業を行っているのか、そして、その結果は、つまり本当の火事で避難する必要があるのか、誤作動でほおっておけばいいのかが、どのように自分達に知らされるのか、の2点です。

前者は万が一にもお見合い(みんなが誰かがやっているだろうと思っている状態)を避けるための質問です。

そして後者は、結果が館内放送のような形でなされるのか、確認した人と店員さんの人づてでなされるのか、を知ることで、結果を知る前に避難する必要があるのかの判断基準になります。

 

ところが、実際には、大丈夫なのか?という質問をする人が非常に多いです。

そんなこと分かるわけないじゃん。

他人の判断を全面的に信じられるのはどーして?

と私は思います。

 

これ、火災報知器がなっている、緊急事態、ということとは関係ありません。

仕事で判断を仰いでいるはずなのに、大丈夫なのか?と聞かれること、結構ありますよね。

自分で判断してくれよ、ということです。

 

ところで、自分のいる建物が火事になった時、生命の危機以外の理由で恐怖することってありますよね。

例えば、不倫相手と一緒にいるところで、ホテルが火事になったりとか。

そういう時、やっぱり誰かと話をする、つまり今の自分の状態を伝えて、真摯なアドバイスをくれる人って、ほしいよなと思います。

真摯なアドバイスって言うのは、根拠なく、大丈夫だから、と安心させてくれること、なんですけどね。

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