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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。

あまりテレビを見ないうちの子供に、隙間時間、電車の中だったり、飲食店で席に案内されるまでであったり、にYoutubeの動画を見せることがあります。

そうすると、多少なりとも、古い情報に接することになります。

で、プリキュアでも、なんとかレンジャーでもいいのですが、シーズン毎に登場人物やアイテムが変わることは今や常識です。

ところが、最新の情報に触れていない子供は、古い情報を元にしたモノを欲しがることになったりするわけです。

初代ガンダムを子供に見せていて、ガンプラは何が欲しい?と聞いたら、当然ゲルググとか言いますよね。

すみません、初代ガンダムとかガンキャノンとか言いますね。

そういう話です。

 

子供が欲しいと言うなら買ってあげよう、とおもちゃ屋に行っても、古いおもちゃなんてなかなか見つからないわけです。

Hobbyoffを巡るのもメンドクサイ。

と言うときに、便利なのがネット通販です。

 

私、普段はネット通販なんてほとんど使わないのですが、子供用品は、比較的よく買っています。

服が大半ですが、くるりんポイだのおしり拭きだの消耗品を買ったこともあります。

やはり、実際に見に行ったお店よりも品揃えが豊富で安い場合が多いこと、大手の通販事業者なら安心できそうだと思っていること、からです。

 

今回、クリスマスに欲しいおもちゃが古いおもちゃで、お店では見つからなかったこともあって通販で買ったのですが、一つ問題がありました。

商品自体は、ちゃんとしたものが届きました。

が、オプションでラッピングのサービスがあり、それがされていなかったのです。

素の箱のまま届いた、ということです(Amazon経由だったので、Amazonの箱の中におもちゃの箱が入っていた、という状態です)。

 

これ、どうしたものかと悩みますね。

クレームを入れて、包装しなおしてもらって再送してもらう、のが一つの解決策です。

でも、めんどくさいのですよね、もう包装紙とかリボンとかを自分でセリアで買ってきてやってしまった方が遥かに楽。

同様に、返金をお願いする、という方法もあります。

こちらも、相手に説明して納得してもらう手間が面倒な上、返金される金額はせいぜい数百円が妥当だと思いますし、そんな少額を返還してもらってうれしいかと言われるとそうでもない。

よく次回使える割引券を贈っておくという対応がお店でなされますが、正直、このお店を、今回の件がなかったとしてもまた利用するかは悩ましい。

何もしないで泣き寝入りするのが一番双方にとっていいような気がするものの、それはそれで釈然としない。

 

今後、ブロックチェーンの普及なんかで、少額決済が手軽にできるようになると、少額の返済が増えるかもなあと思います。

一方、企業がやらかしてるミスは、一つ一つは小さくても、それなりの件数あるように思います。

ミスを減らすことも重要だと思いますが、小さなミスくらい見逃してもいいのに、私は個人的には思っています。

でも、タダで見逃すのは釈然としない。

 

そうすると、小さなミスの少額の賠償金を企業がまとめて、どこかに寄付してくれる仕組みがあればいいのかな、と。

クレームした人とされた企業が同意すると、企業が合意された一定額を第三者に支払うようにする。

第三者は一定額までたまったところで起業に請求し、その金額を寄付する。

その結果をクレームした人に還元する。

 

こうすることの副次的なメリットは、クレームしやすくなるうえ、クレームを受ける企業としても応じやすい、という点が挙げられます。

ゴネられるとどこまで要求されるのか分からなくて困るけど、第三者への寄付であれば妥当な額で折り合える上、それほど無茶な要求がなされないと思われるのです。

 

当面、最善の選択は泣き寝入りですかね。

子供のクリスマスプレゼントの包装を父親がするか、母親がするか、でもうひとバトルありそうで、その意味でも、当該通販業者には猛省していただきたい限りです。

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Welqというヘルスケア情報を扱うサイトに掲載された情報がひどい、と炎上し、運営会社であるDeNAが他の運営するメディアともども閉鎖したことがニュースになっています。

DeNAの社内体制や企業文化等、多くの論点が残っています。

それとは別に、もっと根本的に、Googleを初めとする検索エンジンに表示される情報が有用なものとなるにはどうしたらいいか、という議論も出てきています。

 

私がSEOや検索エンジンに専門知識を持っていないため、素人が考えるとこんな対策があるよ、を思いつくままに書いてみました。

 

(1)検索エンジンで変えられること

(2)別の検索エンジンを使うこと

(3)表示を変えること

(4)その他

 

(1)検索エンジンで変えられること

今起こっていることは、Googleなどの検索エンジン(メンドクサイから以下Googleで)では、検索結果を順番に表示しており、より初めの方に表示されること(上位表示させること)がアクセス数の向上につながっていること、です。

そしてアクセスが増えることが、広告を出稿してもらうなど経済的なインセンティブに繋がっています。

 

検索の結果は、Googleの内部ルール(これをアルゴリズムと言います)に従うのですが、このルールは明示されていません。

しかし、体験からまたは理論的にこのルールを理解し、そのルールに従ってページ(コンテンツ)を用意してあげると、上位に表示させることが可能です。

 

内部ルールが、より有用な情報を上位に表示させるよう変われば良いのだ、Googleがんばれ、という指摘もあります。

個人的には、一民間企業に求めるにはハードルの高い課題であると思います。

コストがかかるか、そのような方法が見つからないか、そのいずれかでなければ、もう既に対応が終わっていてもおかしくないです。

逆に今そうなっていないにはそれなりに理由があるんで難しかろうと。

 

そもそもなんですが、私が検索した結果、とあなたが検索した結果、が同じである必要があるのでしょうか。

私は同じであった方が便利な気がしなくもないけど、別にバラバラであってもそれほど困らないと思います。

 

そうすると、同じ検索エンジンであっても、いくつかのアルゴリズムを用意し、人によって変えることで、検索結果が異なり、検索エンジンの上位に表示させようとする努力(これをSEOと言います)を無効にできるかもしれません。

なお、個人がこれまで検索の結果、どのようなサイトを見ているのか、と言う情報から、より本人にとって有用な情報を上位表示させることも考えられます。例えば、私が料理名を入れて検索する場合、西東京市の子連れ可、というお店ばかり検索しているのなら、初めから子連れ可と言う情報を上位表示させるようなことです。

ただこれ、考えてみると、私がいつも、午後になるとお腹が空いてお菓子の情報を検索しているからと言って、上司の前で検索したらお菓子の情報ばっかり出てきちゃうと気まずいですよね。

なので、どのようなシチュエーションでどのような情報を多く表示させたいかについて本人の納得を得るのが難しく、あまり流行らないのでは、と私は思います。

 

(2)別の検索エンジンを使うこと

アルゴリズムを変えるために、Google以外の検索エンジンを利用することも一案として考えられます。

結果としてGoogleにのみ効果のあるSEOをかいくぐることに繋がる可能性もあります。

 

検索エンジンを使い分けるのは、結果の表示画面が異なるため、結構面倒です。

具体的には広告の表示位置が違います。

なので、Googleのような感覚でクリックすると広告だった、ということが多く起こります。

一方で、逆に言えば、Googleと同じような結果表示さえしてくれれば、他の検索エンジンでも構わないような気が私はします。

 

現在、日本でも世界でも、Googleのシェアが圧倒的です。

そして、簡単に新規参入できる領域ではありません。何故なら、開発コストが膨大にかかるためです。

 

しかし、アルゴリズムによる検索は必ずしも万能でなく、ユーザーのGoogle離れが起きていることはつとに指摘されています。

その一例がInstagramです。

私も初めて聞いた時にはびっくりしましたが、今どきのワカモノは、まずInstagramTwitter検索する人が全体の6割近くいる、というデータがあります。

 

そのため、Googleと同じようなアルゴリズムの競争ではなく、他の検索方法が新規ビジネスになる可能性があります。

Q&Aサイト、Yahoo!知恵袋やOKWave等も、検索方法の一つと言えます。

適当な単語、「西東京市 天気」と入れると回答者が信頼のできるサイトの情報(気象庁のデータだったり)を調べて教えてくれる、というサービスがあってもいいと思います。

誰が答えるんだよ、とかマネタイズは、とか、はいろいろ思うところがありますが、ここでは端折ります。

 

(3)表示を変えること

以上、検索エンジンの検索結果がもっと有用になるために、検索結果をどうしたらいいか、という観点で書いてきましたが、ちょっと別の問題として盗用(パクリ)の問題があります。

どこまでをパクリと判断するのか、という難しい問題はあるものの、遅かれ早かれ、類似性の高いコンテンツは基本的には表示させない、という方向に少なくもGoogleは舵を切るのではないか、と思われます。

 

その際、困ってしまうのは、引用をどうしたらいいのか、ということです。

文章において、引用は必要不可欠だと思いますが、現状の「リンク」は手間です。

実際に、ニュースについてSNSで言及された際、リンクが貼られていても元記事は見ずにコメントする人の多さがニュースになったこともありました。

 

私は書籍の脚注すら見るのが面倒で、どうしても必要な時以外は見に行かないのですが、そういう人は結構多いのではないか、と。

で、ウェブページの途中で、そのまま、タブを変えることもなく、文章に続けてリンク先を表示させたいと思うのです。

そういう表示ってできないのでしょうか。

多段階にリンクを見ている場合に、1層、2層に戻ることくらいは技術的に何とでもなりそうなんですけどね

 

(4)その他

広告を出稿しているのが誰か、はこれから、もっと問われるようになると思います。

Welqに出稿していたのは誰か、現在、DeNAのメディアで唯一運営を続けているMeryですが(※2016/12/6時点でMeryも全面閉鎖)、ここに今なお出稿している企業はどこか。

相当にリスクがあるように思われます。

 

これを集計する方法なり、公表する方法なりがあると、それなりにマネタイズできそうなんですが。

私が知らないだけで、なんかありそうですけどね。

 

 

以上、初めにお断りした通り、素人考えです。

Welqの問題では、インターネットがもっと有用で楽しい空間になるように、いろいろな人が知恵を絞っています。

また、同時に、アメリカの大統領選挙での嘘ニュースの問題(ロシアが意図して虚偽のニュースを流してトランプ大統領誕生を手助けしたのでは、という問題)も起こっています。結構、似たような構造の問題のように私には思えます。

 

対応策として考えられていることの中には、記事を実名署名にするとか、官公庁の規制を入れるとか、そんなアイディアもあります。

でも、多くの社会問題と同様、望ましい解決は、望ましいことを誰もがした結果としての解決なんじゃないか、そんなことを忘れないようにしたいと思っていることを表明して結論に換えさせていただきたいです。

 

恋愛とは、他人の一断面についての数少ない情報を元にした思い込みである、という意見があります(Welq風)。

恋愛に限らず、物事の評価は概ねなんであれ、思い込み、と言えないこともない。

 

そして、大概の評価は、思い込みであっても、つまり後から間違っていたことが分かっても、問題ない。

いや、私が問題ないと思っているだけで、そこが大問題だと騒ぐ人が一定数いることは分かっている。

一定数が多数派であることも。

でも、評価なんて間違うものなのだ、あてにならないモノなのだ、と言うことは覚えておいて損はない。

 

特に男性に顕著であるが、一定の属性の他人(女性)を、その属性だけで「好ましい」と判断することが少なくない。

例えば、女子高生であるとか、OLであるとか、主婦(人妻)であるとか、属性としては分かりやすいものもある。

あるいは、眼鏡をかけているであるとか、黒髪ロングであるとか、フリルのついたワンピースであるとか、見た目を属性とするものもある。

はてまた、考えるときに頬に手を当てるとか、失敗したときに後頭部を左手で触るとか、ビールのジョッキを持った時に人差し指が立っているとか、行動を属性とするものもある。

かつて、同僚から、ビルの5階にあるオフィスまで階段を歩いて登る女性を見ると好ましいと思う、という趣旨の話をされたことがある。

同意はできないが、評価は人それぞれであり、当然のことながら、目くじらを立てるようなことではない。

ただ、私はその同僚が特殊な評価軸を持って生きていることを忘れないが

 

ふと思ったのだが、女性が一定の属性で他人を評価する際は、大抵、悪い評価であるような気がする。

オタクだからキモイとか、デブだからキモイとか、デブオタだからキモキモイとか。

同性に対しても、親が金持ちであるから高飛車であるとか、美人だから高飛車であるとか、東大卒だから高飛車であるとか。

 

ある属性を元に評価を下すことの是非は難しい。

多くの要素を評価の際に考慮することが正しい判断に、つまりより良い結果を盛ら足す判断に結び付く、と漠然と思われているような気がするが、果たしてそれは正しいのであろうか。

ネガティブチェック、つまり、条件に当てはまらないものを弾くという意味では正しいと思う。

しかし、それ以上、つまり失敗の確率を減らすだけではなく、成功をより大きな成功に導くことに貢献するのかは疑わしい。

 

私は属性による判断をしない方であると思っていた。

頭が切れ、スタイル抜群で優しい美人と言われても、私に興味を持たなさそうな属性だな、と思うくらいしか感想はない。

だが、朝の満員電車で、自分が好ましいと思う属性に、唐突に出会ったのだ。

 

その属性とは、

聖書を読む人、

である。

 

これまでも聖書を読む人を見たことがないわけではない。

その大半は大学の授業か、教会の中である。

満員電車で人に囲まれ押されよろめきながら聖書を読む人に出会ったのは初めてである。

 

私がこれまで出会った、聖書を読む人は、暗記した文言を口にする人を除き、紙に書かれたものを読んでいた。

ところが、その人は、スマホで聖書を読む人、だった。

私の知る、聖書を読む人は、朝起きて顔を洗ったような、すっきりとした顔の人である。

ところが、その人は、身体の具合が悪いのか、精神的に虫の居所が悪いのか、他者を拒絶するオーラに包まれていた。

私の思う、聖書を読む人は、清潔感のある身形の人である。

ところが、その人は、派手なメイクと服装で徹夜の仕事の帰り途中、酒の匂いをさせながら聖書を読んでいた。

 

普段の私が、歩いているその人を見たら、ノリが良く、チョーウザイんですけどが口癖で、金目の物には目がなく、道端の植木に食べたパンの袋を捨てるような人だと思ったかもしれない。

しかし、その時、私は、その人を、聖書の教えに則り、野良猫に餌をやるような慈悲深い人だと思った。

人は身なりでもなければ、雰囲気でもない、読んでいるもので評価されるべきなのではなかろうか、と思ったのだ。

 

満員電車が終点に到着し、降車の人群れでその人を見失っても、感動の余韻に浸っていた。

新しい価値観を獲得した、大げさに言えば扉が開いたような感覚を得たことへの感動である。

 

その時、ホームの端を歩くその人が見えた。

片手を電車について、立ち止まっていたのだ。

次の瞬間、胃にため込んでいたものを盛大に車体に塗りつけるとうずくまった

近くにいたサラリーマンが大丈夫ですか?と一緒に屈みこんだのだが、返ってきた、少し離れた場所にいた私にまで聞こえた声は、さわんじゃねーぞクソおやじ、であった。

 

 

聖書のモチーフを現代風にアレンジすることは敬虔なクリスチャンにとっても楽しいことなのか、コンナモノ、見つけました。

http://losangeles.cbslocal.com/2016/11/16/segways-selfies-and-amazon-prime-hipster-nativity-scene-reimagines-the-first-christmas/

学歴、経歴、資格をひけらかす人がいる。

お行儀が良いとはいえないものの、微笑ましいなあと私は思う。

凄いですねと持ち上げてあげるか、聞き流すのか、張り合ってみるのか、はその相手との関係によるのだろう。

 

自分のことを自分で言い出す分には、別に好きにしてくれればいいのだが、世の中には、他人の情報を話したがる人が多い。

しかも、あなたのことをあなたの代わりに褒めてあげているんだから感謝されてもいい、ばりの善意である。

 

これが出身地であるとか、子供の数であるとか、あるいは趣味であるとか、そんなことであればビジネス上は問題にはならない。

困るのは、経歴と資格の情報である。

 

経歴や相手に伝えることで、一定の分野については、知識があることを示すことができる。

知識を示すのは、相手の業界についての知見があることでより関係を円滑にできることが期待される。

一方で、業界についての知識を持っていることが相手を警戒させたり、対抗心を燃やされたりする可能性もある。

そのため、言うべきか、言わざるべきか、言うとしても何時、どのタイミングでいうべきか、は慎重に判断されるべきである。

しかし、他人の経歴を披露する場合に、そのようなことが考慮されることはまずない。

 

資格についても同様である。

資格を盾にすることで、より深いヒアリングができたり、アドバイスに実効性を持たせたりすることができる。

身もふたもない言い方をすれば、相手を支配することができる。

しかし、経歴について述べたところと同様、副作用も少なくない。

起こりがちなのは、専門家としての意見を求められることで、本来であれば有償であるはずのサービスを無償で行う羽目になることが多い。

 

上司と取引先、見込み先を往訪する際、何を言うべきか、は事前に打ち合わせておくことで合わせることができるが、何を言わないかは合わせずらい。

一度往訪してみた後、その上司のパーソナリティーを理解し、同じことを繰り返すのだろうと把握したところで、修正は困難である。

なぜ、それはしてはいけないことなのか、が理解できるのであれば、初めからやらないだろうと思われるからである。

 

押してもだめなら引いてみな、説明してもだめならぶん殴ってみな、という私が今作った標語はあるが、対応策は、ぶん殴る、つまり自分で痛い思いをして、気づいてもらうよりほかない。

自分で気づいてもらうための一番いい方法は、同じ目に遭ってもらうこと、である。

 

具体的には、自分の隠し持っておきたい経歴を披露してもらったのであれば、自分も上司の経歴を披露して差し上げればよい。

失敗した事案があれば、失敗したことを言ってはならないが、あの案件に関与していましたね、くらいは言って差し上げると余計に深く感じてもらえるのではないだろうか。

 

合コンでは結婚していることも、趣味が風俗であることも、決して話してはならない、と語らざるべき事柄を徹底する上司が、何故仕事ではそれができないのか、今後、謎の解明にいそしみたいと思うところである。

購買意欲を掻き立てる、なんだかすごいことに聞こえるが、売り物を欲しいと思わせるのは、大人相手より子供相手の方が楽である。

あいつらは、欲しいものが大人と比べてはるかにたくさんある。

欲しいものがあれば、それを隠そうとしない。

どころか全力でアピールする。

 

もちろん、親が買い与えるものなど、数百円が限度(それ以上であれば、特別な事情、クリスマスのプレゼントなど)であろう。

その数百円の売り上げのために、子供の目に付く所に、おもちゃやお菓子や、ガチャガチャが置いてある。

 

たかだか数百円であれば、ぽんっと買えるか、と言うとそうでもない。

親の立場としては、強請ったものを買ってもらえると子供に覚えられることが何より嫌だ。

正直、強請られることは非常にメンドクサイ。

それはモノを買って、と言うおねだりであろうと、何か食べたいというおねだりであろうと同様である。

応えてあげられることならまだよい。

断るのは、相手の抵抗もさることながら、良心の呵責も覚えるし、精神的にも負荷がかかる。

とはいえ、経済的な理由(いつも買ってあげるわけにはいかないし、高額の化粧品のようなまったく意味不明なおねだりも少なくない)、健康面での配慮(食べたいだけ食べさせるわけにはいかないし、甘いものを制限したい)、安全の確保(包丁が触りたい、高いところに登りたいなどなど)から断ることの方が多い。

できることなら、おねだりなどしてほしくない、というのはどの親でも同じだと思う。

 

欲しいと思ったのに、つまりは手に入るかもしれないと一度は思ったのに、手に入らない悲しさは大人も子供も同じであろう。

子供もほしいと言ったものが手に入らないと分かると泣き叫ぶことが珍しくない。

何かを欲しがって泣き叫ぶ姿には理性の欠片もない。

たまーに、笑ってくれるおばあさんもいるが、嫌な顔をされることが大半である。

し、そもそも周りがどんな顔で自分達を眺めているのか、冷静に観察できる親は多くはない。

想像上の他人は自分達には冷たい。

 

子供を持つ身になってからであっても、強請りながら泣き叫ぶ子供がいるお店に入りたいかと聞かれれば、決してそんなことはない。

怒りや不快を感じるわけではないが、他人の子供にできることなど何もなく、できれば近づきたくない。

 

結果として、ファミレスの入口においてあるおもちゃは、買ってもらえない子供、買いたくない親、親子とは関係のない客、客足を遠ざけてしまう可能性のあるお店、すべてに望ましくないような気がする。

喜ぶのは短期的に売り上げがアップして投資家への説明責任を果たせる経営者だけではないだろうか。

やはり資本家による労働者の搾取が問題なのではなかろうか。

 

それはともかく、誰もが不幸になっているシステムのような気がしてならない。

この不幸のシステムを回避する簡単な方法は、店に入る前に、新しいおもちゃを子供に与えることであろう。

結局買えってことなのか。

いや、そうではない。

新しいおもちゃは、新品のおもちゃという意味ではないからだ。

その子供にとって、目新しいおもちゃがあればそれでいいはずだ。

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