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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
報告、連絡、相談のいわゆる報・連・相は何故機能しないのか?
 
日経ビジネスオンラインに、これまで報・連・相でいい目にあったことがないのだから当たり前ではないか、という記述があって、それはそれでなるほどなあ、と思った。
 
自分のことを振り返ってみても、いい思い出なんてない。
なかなか理解されずにトンチンカンな質問をされてうんざりしたり、見当違いの部署に電話をかけてケンカを吹っかけたり。
上司が期待に応えてくれたこと、議論が深まって満足したことなんて驚くほど少ない。
という思い出話は半分本当であるが、半分は本当ではない。
 
半分本当なのは、会社に入ってから数年はそう思っていたということであり、もう半分の本当ではないのは、自分が上司の立場になり報・連・相を求めると同時に、する立場になると、改めて自分がする方の報・連・相って大事だし必要なことなんだな、と思うようになってきたためである。
 
立場が変わればわが身を振り返る、ということはあって、親になる体験などもそのような文脈で語られることがあるのだが、では実際に何が変わったのか、を説明するのは難しい。
以前から、単なる事実の報告には、今後の見通しを当面のTodoを知らせるとよいのだろうと思って実践していた。
また、相談は、本当に答えのない状態で相談に行くことはなく、自分の腹案を持ちつつも、ああそれでいいよ、と言ってもらえるように持ち掛けていた。
この二つは今でも何ら変わりがない。
 
相談、についてはあまり変わりがなく、変わったのは、報告である。
報告の回数が格段に増えた。
報告の回数が増えた理由は、上司が自分の邪魔をしないことだけではなく有益なことをしてくれないとしたいことが出来なくなってきた、からである。
 
ただ、マネージャー(中間管理職)として達成したいことには上司の協力(あえて言えば部下の協力も)が必要なのに対して、担当者として仕事しているとそれが必要のないことも多々ある。
つまり報告が上がってこない。
 
何とか報告をあげてほしいので、まずは、口で要請したみた。
なんの変化もない。
次に、このようなことがあるでしょう、それを報告してほしいんだよ、と内容まで指定してみたが、次に繋がっている気はしない。
 
ちなみに、何か話を聞いて(例えば一緒の会議に出席して)、その内容を共通の上司に直接話しておいてください、という指示にも従ってもらえない。
 
引き続きの課題。
 
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節句の雛人形として、壇上に並んでいる二人の大臣については福やかで微笑ましいと思う。

文部科学省(以下「役所」)が、あるいは文部科学大臣が新設大学の認可を巡って世間を混乱させている。
このような混乱を生じさせたことに対して、大臣の資質を問う声が上がっており、具体的には、事前に審議会で承認されていることを覆したこと、個々の新設を申請する大学には特段の瑕疵が見当たらないこと(これは大臣本人も認めている)、新設を申請する大学が既に開校準備を進めていることから不許可とした場合の損害が大きいこと、が問題とされている。

これらの批判はそもそも正しいのだろうか?
まず、事前に審議会で承認されていることを大臣の権限で覆えすことが横暴である、との批判については、最終判断権限が大臣に与えられている以上、審議会で承認されたことをもって、大臣が追認しなければならない理由はないはずである。
ただし、当該判断の結果については説明責任が求められることは言うまでもない。また、その説明が十分、周囲を納得させることができるものでなければ、責任を問われてしかるべきだと思われる。第2の、個々の大学には瑕疵がない、という点は、この説明責任に関連するものと思われる。この点は後述する。

次に、行政の指示に従って手続きを進めてきたところ、最終判断の時点で不許可とされてしまうと既に行った投資が無駄になる等、関係者に損害を生じせしめる、という点であるが、これは民事で解決すべき問題である。
一方で、投資したことは、自己責任であるとの議論もありうるように思われるし、他方で何らかの詐害行為、役所側で投資を誘導したような事実を含め、があれば損害賠償を請求すればいい。つまり裁判所で決着をつけるべき問題であるように思われる。

では、本件を巡る、大臣の説明責任は十分に果されているのだろうか。
私には不十分だと思われる。
大学の数が多すぎて質の低下を招いている、ことを懸念された結果、との報道もあるが、大学の数を減らすのであれば、新設校と既存の大学を並べた上で、その要否を判断すべきで新設を認可しないことの説明にはなっていないと思われるためである。
なお、高度な政治的判断が求められ、場合によっては開示できない事情もありうることは承知しているが、説明責任を果すことは、真実を述べることを求めるものではないので、このような批判は失当だと考えている。

与野党からの批判を受け、大臣が一転して認可する方向に舵を切った、との報道もなされているが、この点は批判されるべきであろうか。
初めから妥当な結論を導き出せればもっとよかったことは間違いないものの私は、判断にたいして批判を受け、改めて考え直し、結論を出したことは、大臣の資質としてむしろプラスに評価すべきなのではないか、と思う。
今後、自ら問題視された大学の質について、中長期的なロードマップを描くこと、優先順位をつけて対処すること、が求められているのであって、それができるか否か、の資質は今回の騒動で明確になったと思っていない。

私は、現在の大臣を擁護することを目的としていない。
今回の大臣の資質を巡る議論自体が上記の通り迷走しているように思われる点、つまり大臣の資質を判断すべき人たちも資質がないのではないか、という点、また同じことの言い換えに過ぎないが、資質のある大臣を任命することができない仕組み自体を問題視している。
大臣の首を摩り替えたところで、同じ問題が繰り返されるだけではないだろうか。

本と、ブログやその他インターネットで閲覧できる文章との違いって何だろう、とつらつらと考えていた。
電子書籍の端末発売にあわせて盛り上がった(かのように見えた)議論であるが、議論の俎上に載せられた、紙の発光とモニター画面の発光が読み手に別の認識を惹起させるのではないか、つまり、紙の本を読むのと、電子モニタ上で読むのと、読み終わった後に何を考えるか、どんな感想を持つか、どれくらい記憶されるか、が異なるのではないかという点に、個人的には関心がない(しかも比較した結果、紙が優れているんだよ、という論調には何も言う気がしない)。
だって、考えてみてほしいのだが、今からウン十年前、孫の顔でも、恋人の顔でもいいんだけど、を見るのに、写真や画像の荒いビデオしかなかったのに、今じゃあ携帯で写メ撮って送って、保存して、ニヤニヤしているじゃないですか、していませんか、だったらしてみませんか?
これが紙に印刷された写真じゃないと、とか、紙の手触りが、なんて言っている人、ほとんどみたことない(全くない、わけではないんだけど)。もちろん、名画を写真じゃなくて実物で見ると違うとか、芸能人を普段テレビで見ていても実際に会ってみたらオーラが違ったとか、そういうことはあるものの、って話がだいぶずれてきた。

翻って、では紙の本でも、ネットの情報でも全く同じなのか、と言われれば、それはやっぱり違うと思う。その違いは何かと言えば、書き手と自分との間に、誰かが一度読んで、書き手が読み手の意見を聞いて再考しているかどうか、なのではないか。
ここで申し上げたいのは、文章の質が上がるとか、そういうことではない。
他人が読んで、ある程度理解できるものであるかどうか、だと思う。
体験談を細切れにして投稿する掲示板をご覧になったことがあればより理解されやすいと思うのだが、あの場所では文章の良し悪しよりもむしろ、純粋に体験内容の面白さを判断できているように思える。
その理由は、書いてある内容が「他人」から見て理解できない場合には、質問が挟まり、書き手がそれに返答して書き足すことで不足情報が補足されるからである。
ネット上に氾濫する文章が全て他人が理解できないと困る、なんてことを言うつもりは全くないのだが、読みたい何かが、自分の理解できる範囲にあるのかどうかのフィルタリングはやっぱりほしいなあと思う。
まあ、読めない(理解できない)ものは読者として自分が選考に漏れていると考えればいいのだが。

話がまたぶれるが、ネットで読める文章が増えてきて、恐らくは読みきれないほど大量の文章がある中で、文章を読む機会というは、個人的には着実に増えてきている、わけではない。私自身はもともと活字中毒気味(ホンモノの中毒者には足元にも及ばない)くらいにしか文章を読まないのだが、正直本を読んでいた時間がネットを見る時間に変わっているだけで、あまり変化がない。
では、今の子供たちなり、日本人が平均で文字を追いかける時間は増えているのだろうか。ちゃんと統計を探したわけではない(適当にも探していない)だが、恐らく増えているような気がする。何故なら、ネットで流行たるものの大半がまだ文章であり(画像や音楽ではなく)それについて行きたい人も増えているように思うから。
仮にネットで文章を読む時間が増えているとして、それは物事の理解力を向上させることに役立っているのだろうか。
これまた個人的にはそうは思えないのだが、こちらは何ら確証がない。

以上の文章は、私自身、知り合いではない他人に理解してもらえるような文章が書きたいと思っているのですが、まだまだです、というざんげです。
繰り返しになりますが、個人の感想や感情を背景なく書かれているものが良くない、ということを全く意図していません。私向きじゃなくて少し悲しくなる(もっと理解しあえるかもしれないのに)という程度です。

田無駅そばにあるチャニーは語られるべきよいお店だと思う。

何よりもまず、交通の便がよい。好立地(田無駅から歩けない距離ではなく、青梅街道沿い)にありながら、車では行きずらいそのロケーションが良い。歩いていくことで特別感を感じられ、歩いていくことで身近感を胸に抱け、歩いていくことで期待感が高まり、何より歩いていくことでお腹が空く。

次に外観がいい。一度知ってしまうと目に付く外観、目立つでもなく目立たぬでもなく、そこに確固として存在し、間違いなくあると実感される外観。扉の前に立つだけで、これから素晴らしい時間が始まると期待させられる外観。

加えて店内のインテリアがいい。一昔前の喫茶店ってこんな感じだったのだろうかと思わせるインテリア。カウンターの内側にはインテリアの一部としてみても相応しいマスターとおかみさん(店長と社長とか、なにか別の呼び名があるのかもしれないが)。ゆったりとした時間の流れを感じさせる、ゆったりと時間が流れることってこんなに落ち着くものなんだと感じさせるインテリア。

さらに店内の雰囲気がいい。よく地元の人を相手にしているお店があるが、ここもそんな感じ。私は地元の人でも常連さんでもないが、いつもこの雰囲気になじませてくれるように接してくださる店内の皆様が(もちろんお客さんはその都度違うんですが)いい。一見さんでも何の躊躇も必要ない。わずらわしくもなく、疎外感を味わうこともない、絶妙の距離感がここには存在する。

最後に味がいい。看板メニュー?の粥は美味しいし、バンメンなる都内に食べられるのはここだけ!とテレビで放送されていたものが、そのお店以外で食べられることもうれしい。もちろん、餃子もラーメンは正直普通だと思うけど、普通に美味しい。お値段も郊外の個人経営中華料理屋さんに比べて若干安いような気がする。お財布とお腹への満足感がすごい。

私はこのお店が大好きだし、ずっと続けていってほしいと思っている。でも、だからと言って通いつめる時間もお金も根気もない。正直、目くるめく刺激とか、度肝を抜かれる体験とかにも無縁である。平日昼間は勤めに出て市内におらず、週末もそれほど近くに住んでいるわけでもない私が通いつめることなどできやしない。そんな私に出来るとても少ない事柄の一つが、このお店を誰も見ていないいつか誰かが見てくれるかもしれないこのブログで褒めること。
それは、彼女のいる高校の先輩が陸上部で最後の大会に挑むのを片思いしながら眺めているようなものだと思う。
はかないとも思うし、切ないとも思うし、歯がゆいとも思う。
それでもいいのだ、それしかできないのだから。

私はこのお店が好きなんだし。

 

http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=4602078 
http://news0718.blog.so-net.ne.jp/archive/c2303236774-1

中央大学横浜山手中学校(横浜市中区)の入試を巡り、中央大学の理事長が解任されたという報道については、いろいろと考えさせられます。
ことの経緯、というのが明確になっていないのですが、時系列的には以下のような推移を辿っているようです。
・中学校の入試が行われる前に、当時の理事長が知人から、知人の孫が受験することを聞き、中学校の校長に指名、受験番号を伝えた(理事長は挨拶程度の意味合いだった、という趣旨の発言をされているようですが)。
・入試当日に、中学校の校長が理事長に、状況(合格には点数が足りていないこと)を報告
・試験後の合格判定会議において、中学校の校長がこの生徒を合格させられないか、と提案し、同会議において了承された
・内部告発により、中央大学の学長が事態を認識。中学校に対して合格の取り消しを求める。
・中学校は、合格の取り消しを決め、県にも報告
・県は合格取り消しの取り消し(ややこしい)を指示するも、合格は取り消された模様

以下、思うところを書き出してみると、
■中央大学の設置した第三者委員会について
設置したことも、委員会の報告内容も、公開されていない(か私が見つけられないか)。それがないので、事実関係が曖昧なままになっています。事実関係が曖昧であることで、(1)本件の報道は「不正」入試とされており、内容よりも見出しにつられて批判されていると思われること、(2)報道されていない問題が山積しているんだろうなと外部からは思われること、の2点が問題です。特に、以下述べるように、関係者の皆様にはそれぞれ言い分があるのだと思うのですが、誰もが批判される対象となってしまっており、大変残念な気がします。

■受験生本人について
中学校の受験にかかる問題ですので、不正を行う認識はもちろん、不正な行為があったか否かの認識があるのかも不明です。個人的には合格点に届かなかった、という一事をもって、または年齢も加味した二事をもって、何かを判断すべきか悩むところではありますが。
では、本人ではなく、受験生の関係者はどのような認識なのでしょうか。
孫が受験する、ってときに、祖父だか祖母だか分かりませんが、そんな人が普通、受験番号を知っているでしょうか。親御さんのいらっしゃらないところで、受験番号を孫から聞いた、こっそりと受験番号を調べた、というのも私には想像の範疇外です。親御さんが祖父母に受験番号を伝えたと考えるのが一番自然です。その際に、「777だったの、縁起がいいでしょう?」みたいな言い方をしたのかも知れませんし、どの程度本件に関して認識をお持ちなのか判然としません。平たく言いますと、子供や孫を不正にでも合格させよう、と親御さんや祖父母の方が考えていたのかどうかが不明ですし、不明であることは、そのような可能性が残っていると考える余地があります。
この点も、報道が事実関係を追いかけきれておらず、また第三者委員会が調査しているのかいないのか結果を公表していないために起きている問題だと思います。

■理事長の関与について
ご本人が裁判起こして争うとおっしゃっているらしいので、ご認識として知人の孫を入学させろ、と指示したことはない、ということなのではないかと思われます。
方々で指摘されている通り、仮にご本人に入学させることを指示した認識がないとしても、職務上上位の立場にある人が、特定の事案に言及すること自体がやるべきではない行為、という認識を持つことが必要だと思います。つまり、理事長の職責として言わないといけないこと以外のことを言うべきではない、という意味です。
なお、ご本人の名誉のために裁判を行うことは、ご本人の判断すべき事柄だと思うのですが、所属されている会社には何ら影響がないのか、は不明です。会社としても本人から当然に報告を受け、何らかの判断をされているものと思いますので、会長職を解かれていないことを持って、会社及び株主が問題ないと判断しているものと、外部からは思われます。来年の三菱商事の株主総会担当でなくて本当に良かった。

■中学校の対応について
同中学校の校長先生は、本件で一番とも二番とも、責任のある人のような気がするのですが、校長職を続けておられます。この辺り、全体の対応が分かりづらく、中央大学としては辞任を求めるほどの責任がないと判断されているのか、それ以上に校長先生が優秀なので手放せないのか、よく分からないところです。
なお、むやみやたらと他人を批判すべきではないのですが、理事長側が、中学校の校長に頼んで、問題があれば当然に断ってくるはずだ、と思っていた可能性は否定できません。あるいは、合格点に達しないのに合格させるとこれだけリスクがありますよ、と説明してくれることを期待していたとか。

■合格判定会議について
そもそも今回のように点数として不合格な人を合格させる以外に、合格判定会議って何をしている組織なんだろうと思うのですが(逆に点数は合格でも、あの試験場での態度はちょっと、という受験者を不合格にさせるとか、何点を合格ラインにするか、とかを決めるのかなあ、と推測はできますが)、この構成員がどんな人たちで、今回の問題を受けてどうなったのか、が不明です。先生方なんじゃないかと思うんですよね、構成員の皆さん。まだ教壇に立っておられるのでしょうか。

■合格判定の取り消しについて
上記の通り、本人に限って問題を見れば、事情を何も知らされていないのに合格が不合格にされた、というとても納得できない結果なんでしょうが、身内の大人がやっちまった事例でしたらやむを得ない気がします。詳細が分からないとなんとも言いがたい。また、同中学校に入学された他の子供やその子供達の親御さんからすると、あるいは別の合格しなかった関係者の皆様にとってもですが、入学させてよいのか、という問題はありそうな気がいます。
ただ、むしろより問題なのは、中央大学と神奈川県の対応です。まず中央大学ですが、第三者委員会の報告では合格の取り消しには問題があり、その決定をした中央大学の学長には責任があるという見解だそうです。どういう事実調査を前提に入学取り消しの判断をしたのか分からないのですが、個人的には、答えのない問題に対する一つのありうる対応の仕方なのではないかと考えます。一方で、神奈川県の対応は、理解に苦しみます。本件は3/8に入学を取り消し、3/9に神奈川県に相談と謝罪をしているのですが、この段階で神奈川県としては合格の取り消しをすべきではないと回答しているわけで、実際には取り消されていることとちぐはぐな理由が分かりません。

■情報開示について
これまた多方面で同時進行なんで、うんざりしますが、一つずつまとめると、まずは中央大学ですが、もっと早く開示すべきだったのではないかと思います。仮に3月の段階で分かっていれば入学を取りやめる子供だっていたでしょうし。その機会を奪ってしまったのは失敗だったかなと。
次に中学校の校長先生ですが、試験結果を理事長に報告することは、個人情報の漏洩っぽいです。どういう意識なんだかなあと思います。
最後に、本件は神奈川県への取材で判明した事実が報道されたことが発端であり、相談を受けた神奈川県としてこの段階での開示が必要と判断した結果なんでしょうか。なんとなくぽろっと出てしまった印象が強く、どうなっているのかなと思います。

なんかだらだらと書いてきて、こんな結びで恐縮ですが、事実関係が判然としないので、さっぱり分かりませんねえ。

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