節句の雛人形として、壇上に並んでいる二人の大臣については福やかで微笑ましいと思う。
文部科学省(以下「役所」)が、あるいは文部科学大臣が新設大学の認可を巡って世間を混乱させている。
このような混乱を生じさせたことに対して、大臣の資質を問う声が上がっており、具体的には、事前に審議会で承認されていることを覆したこと、個々の新設を申請する大学には特段の瑕疵が見当たらないこと(これは大臣本人も認めている)、新設を申請する大学が既に開校準備を進めていることから不許可とした場合の損害が大きいこと、が問題とされている。
これらの批判はそもそも正しいのだろうか?
まず、事前に審議会で承認されていることを大臣の権限で覆えすことが横暴である、との批判については、最終判断権限が大臣に与えられている以上、審議会で承認されたことをもって、大臣が追認しなければならない理由はないはずである。
ただし、当該判断の結果については説明責任が求められることは言うまでもない。また、その説明が十分、周囲を納得させることができるものでなければ、責任を問われてしかるべきだと思われる。第2の、個々の大学には瑕疵がない、という点は、この説明責任に関連するものと思われる。この点は後述する。
次に、行政の指示に従って手続きを進めてきたところ、最終判断の時点で不許可とされてしまうと既に行った投資が無駄になる等、関係者に損害を生じせしめる、という点であるが、これは民事で解決すべき問題である。
一方で、投資したことは、自己責任であるとの議論もありうるように思われるし、他方で何らかの詐害行為、役所側で投資を誘導したような事実を含め、があれば損害賠償を請求すればいい。つまり裁判所で決着をつけるべき問題であるように思われる。
では、本件を巡る、大臣の説明責任は十分に果されているのだろうか。
私には不十分だと思われる。
大学の数が多すぎて質の低下を招いている、ことを懸念された結果、との報道もあるが、大学の数を減らすのであれば、新設校と既存の大学を並べた上で、その要否を判断すべきで新設を認可しないことの説明にはなっていないと思われるためである。
なお、高度な政治的判断が求められ、場合によっては開示できない事情もありうることは承知しているが、説明責任を果すことは、真実を述べることを求めるものではないので、このような批判は失当だと考えている。
与野党からの批判を受け、大臣が一転して認可する方向に舵を切った、との報道もなされているが、この点は批判されるべきであろうか。
初めから妥当な結論を導き出せればもっとよかったことは間違いないものの私は、判断にたいして批判を受け、改めて考え直し、結論を出したことは、大臣の資質としてむしろプラスに評価すべきなのではないか、と思う。
今後、自ら問題視された大学の質について、中長期的なロードマップを描くこと、優先順位をつけて対処すること、が求められているのであって、それができるか否か、の資質は今回の騒動で明確になったと思っていない。
私は、現在の大臣を擁護することを目的としていない。
今回の大臣の資質を巡る議論自体が上記の通り迷走しているように思われる点、つまり大臣の資質を判断すべき人たちも資質がないのではないか、という点、また同じことの言い換えに過ぎないが、資質のある大臣を任命することができない仕組み自体を問題視している。
大臣の首を摩り替えたところで、同じ問題が繰り返されるだけではないだろうか。