東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
菅首相の退陣表明を受け、自民党の総裁選挙が行われる。
4人が立候補し、29日に開票されることとなる。
自民党の総裁になるということは、自民党が与党である現在、総理大臣になる、とほぼ同義である。
つまり、国の次のリーダーを選ぶための選挙が行われているということである。
では、現在立候補の届けを出している4人の中で誰が一番適任なのであろうか。
その答えを提示することはこの文章の目的ではないので割愛する。
代わりに総裁や首相というものの周辺で気になっていることを2つ、書き留めておきたいと思う。
1.誰が首相になっても同じなのか
総裁選挙に関する報道やコメントが多々なされている。しかし、私が今、もっとも知りたいし、議論した方がいいと思っているのは、4人の誰が首相になっても同じなのか?だ。
もっと言うと、誰がなっても同じではない、この人だったら日本がよくなるし、この人だったら悪くなる、ということがあれば、その点を議論すべきなのではないか。
野党から、自公政権が続く限り、誰が首相になっても同じである、と主張されることがある。これは4人の誰が首相になっても同じ、という意味なのだろうか。
もし、そうではなく、誰が首相になっても日本はよくならない、あるいは、自分にまかせてくれれば4人の誰よりもうまくやって見せる、なら、少なくとも4人の中なら誰がいいのか、を聞いてみたい。
私たちは、おそらく多くの政治家の先生方も、最良の選択肢をつかみ取れる場合ばかりではない。むしろ、現実に提示された選択肢の中からもっともよいものを選ばねばならないことが多い。
その選択肢はいずれも、完全な解決策ではないゆえに、誰からも批判されないものではないだろう。
限定的な選択肢から物事を選べることをしっかり示してもらうべきなのではないだろうか。
これは野党だけではなく公明党も同じ何だと思うのだが。
2.誰が首相にふさわしいのかをどうやって判断するか
私自身も含めて、誰が首相にふさわしいのかを判断できる人なんてほとんどいないように思う。
いくつかの限定的な論点について各候補者の意見を聞くことはできる。
それはもちろん、大事なことではあるものの、もっと重要なことがあると思う。
それは、その意見を実現させられるのか、ということだ。
首相というのは行政庁のトップである。
いくら言っていることが立派で、権限を持っているからと言って、自分の実現したいことを実現させるために組織を動かせるのか、はまた別の話だ。
ぞれぞれの候補者が「やりたいこと」など首相の仕事のほんの一部でしかないように思える。
その仕事の大半は、私たちの仕事の多くがそうであるように、やらなければならないことで占められている。
もちろん、個々の仕事をこなすには判断が必要であり、それぞれの判断は個人の思想を元に行われるため、何がしたいのかは重要である。
しかし、トップの仕事は下から上がってきた事柄を判断することだとすると、組織を動かせないと下から必要な事項が上がってこない。
このように考えてみると、行政のトップとしての首相にだれがふさわしいのか、判断するための材料を私たちはほとんど持っていないことに気づく。
材料とは、その人が過去に行政のトップを務めたことがあるかどうかである。
そのため、首相の要件として、首長の経験を求めるべきではないか、と私は思う。明日でなくてもいい10年後、あるいは20年後はそうすべきだし、それは今から決めておかなければ間に合わない。
という文章を書き始めて4日も経ってしまい、残すところは後3日である。
投票権のない私は、ただただ投票される皆さんが流されずに、選択してほしいと願うばかりである。
4人が立候補し、29日に開票されることとなる。
自民党の総裁になるということは、自民党が与党である現在、総理大臣になる、とほぼ同義である。
つまり、国の次のリーダーを選ぶための選挙が行われているということである。
では、現在立候補の届けを出している4人の中で誰が一番適任なのであろうか。
その答えを提示することはこの文章の目的ではないので割愛する。
代わりに総裁や首相というものの周辺で気になっていることを2つ、書き留めておきたいと思う。
1.誰が首相になっても同じなのか
総裁選挙に関する報道やコメントが多々なされている。しかし、私が今、もっとも知りたいし、議論した方がいいと思っているのは、4人の誰が首相になっても同じなのか?だ。
もっと言うと、誰がなっても同じではない、この人だったら日本がよくなるし、この人だったら悪くなる、ということがあれば、その点を議論すべきなのではないか。
野党から、自公政権が続く限り、誰が首相になっても同じである、と主張されることがある。これは4人の誰が首相になっても同じ、という意味なのだろうか。
もし、そうではなく、誰が首相になっても日本はよくならない、あるいは、自分にまかせてくれれば4人の誰よりもうまくやって見せる、なら、少なくとも4人の中なら誰がいいのか、を聞いてみたい。
私たちは、おそらく多くの政治家の先生方も、最良の選択肢をつかみ取れる場合ばかりではない。むしろ、現実に提示された選択肢の中からもっともよいものを選ばねばならないことが多い。
その選択肢はいずれも、完全な解決策ではないゆえに、誰からも批判されないものではないだろう。
限定的な選択肢から物事を選べることをしっかり示してもらうべきなのではないだろうか。
これは野党だけではなく公明党も同じ何だと思うのだが。
2.誰が首相にふさわしいのかをどうやって判断するか
私自身も含めて、誰が首相にふさわしいのかを判断できる人なんてほとんどいないように思う。
いくつかの限定的な論点について各候補者の意見を聞くことはできる。
それはもちろん、大事なことではあるものの、もっと重要なことがあると思う。
それは、その意見を実現させられるのか、ということだ。
首相というのは行政庁のトップである。
いくら言っていることが立派で、権限を持っているからと言って、自分の実現したいことを実現させるために組織を動かせるのか、はまた別の話だ。
ぞれぞれの候補者が「やりたいこと」など首相の仕事のほんの一部でしかないように思える。
その仕事の大半は、私たちの仕事の多くがそうであるように、やらなければならないことで占められている。
もちろん、個々の仕事をこなすには判断が必要であり、それぞれの判断は個人の思想を元に行われるため、何がしたいのかは重要である。
しかし、トップの仕事は下から上がってきた事柄を判断することだとすると、組織を動かせないと下から必要な事項が上がってこない。
このように考えてみると、行政のトップとしての首相にだれがふさわしいのか、判断するための材料を私たちはほとんど持っていないことに気づく。
材料とは、その人が過去に行政のトップを務めたことがあるかどうかである。
そのため、首相の要件として、首長の経験を求めるべきではないか、と私は思う。明日でなくてもいい10年後、あるいは20年後はそうすべきだし、それは今から決めておかなければ間に合わない。
という文章を書き始めて4日も経ってしまい、残すところは後3日である。
投票権のない私は、ただただ投票される皆さんが流されずに、選択してほしいと願うばかりである。
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