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東村山市中央公園周辺に住んでいると世界はこう見えています。偏見多めでしょうが。
「恐怖とは想像だ。体感させることはできないが、上限がない」

何に恐怖しているのか、その何を言語化することはできない。言葉にすれば、できるのであれば、それは恐怖ではなく不安になるのだから。

恐怖とは思考や感情ではなく、実感なのだ。

恐怖は私を覚醒させる。
夢で恐怖したがために目が冴えに冴えたことは一度や二度の出来事ではない。
そのたびに私は生きていることを実感し、実感しなくなる未来を実感する。

強烈な実感は忘れ得ぬ体験であるはずなのに、時間とともに薄れていく。いや、正確には、一定の時間が経つと恐怖は霧散する。
記憶として恐怖したことは思い出せるのだが、実感として再び感じることはできなくなる。

私は一時期、恐怖と同じような実感を喪失感にも覚えていた。
私が持っていたというのはおこがましいのだが、手に入れられたはずのものが、今どこにあるのだか分からない、その状態を喪失感として感じる。
私はそれがすでに失われたことを知っており、つまりは二度と手に入らない喪失感なのだ。

いずれにしても実感というものはいつそれを感じられるのか、予期することができない。
私は未だに実感を得るために何をすればいいのかを理解していない。
恐怖は突然やってきて、突然去っていく。

自分の恐怖ですらかくのごとしであるからにして、隣の者の恐怖に対して、私ができることなどほとんど何もない。
恐怖を遠ざけることはもちろんのこと、和らげることもできない
できることといえば気休めを口にし、神に祈ることくらいしかない。
本当にそれしかない。

私は祈ることの効用(現世的な利益)など何ら信じていない。
でも祈る。
それは祈ることくらいしか、自分にできることはないからなのだ。
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2024年4月、世界ではロシアによるウクライナ侵攻がいまだに決着しておらず、イスラエルとイラクは一触即発の雰囲気を醸し出しています。
東京都知事は4年ぶり2回目でしょうか、学歴詐称問題が浮上しており、自民党の裏金問題は岸田首相の訪米が成果を上げている中、放置されているように見えます。

おしなべて、問題が長期化してきているように思われます。
これは、従来のあるべき正しい状態に戻る力学が不十分にしか働いていないためですが、問題は、その力学が弱まっているのか、「従来のあるべき正しい姿」が正しくないのではという疑念が持ち上がっているからなのか、が見極めづらい点にあります。

そのような長期化している問題の一つに、わたしの引っ越し問題があります。

一昨年、転職してから、コロナは収まりをみせつつあり(世間的には忘れ去られ始めており)、出社が格段に増えています。もっと言えば、出社がかなり強力に義務化されつつあります。
そのため、会社までの距離が遠く時間がかかるのが苦痛だ、という点が目の前の、優先順位の高い問題になっています。

引っ越していない理由はいくつかあります。
外向けに明言しているのは、娘が来年就職するので、就職先(というか勤務地)を見極めて、娘が帰省しやすいところに引っ越したい、というものです。
これは嘘ではないのですが、それよりも何よりも引っ越しが面倒という点も大きなネックです。

とはいえ、来年には公式の言い訳の期限も切れるわけで、今から引越し先について少しずつ情報収集を始めています。

引っ越しにあたっての最重要事項は、何と言っても払える家賃の家を見つけることです。
支払える家賃の範囲内で最も職場に近づける家をさがしていると言い換えることもできます。

家賃は場所だけではなく、家の広さによっても変わります。
悩んでいるのは、こちらの方で、自分が住むにはどれだけの広さが必要なのかがよくわかりません。

ワンルームでは流石に狭いものの、ではどれだけあればいいのか、は難しいです。
生活が安定している、というのは、新しい趣味を始めたりしないということですが、それすら、なかなかよくわからないのです。

そして間違えた家選びは、決定的な問題ではないものの、引っ越しのめんどくささから、やり直しが困難であることは言うまでもありません。

腰を据えて来年の引っ越しに備える、のが当面の課題だな、と忘れてしまうのでここでも書いておきたいと思いました。
最近、ハンドパンという楽器を知りました。




私は楽器を弾いたことがなく、特別音楽が好きというわけでもないので、なんかきれいな音だなと思うのですが、いくつかYoutubeで動画を探していたら、自分でもやってみたくなりました。

それで、ここからが本題なのですが、何か新しいことを始めようと思ったとき、いくつか障害になることがあります。
よく出てくるのが、、、
・お金がかかる
・やり方が分からない
・一緒にやる仲間がいない

先立つものはお金なので、道具をそろえたり、何かを始めるためにはだいたいお金がかかります。
そのお金が、例えば1,000万円かかるとなるとなかなか始められませんよね。
私の感覚ですと10万円を超えると失敗できない(あるいはもとを取りたい)と思います。
ハンドパンは1台、30万程度するようなので、お金のハードルはとっても高いです。

次にやり方が分からない,これも高いハードルになります。
私はあまり気になりませんが、教えてくれる人がいないとなかなか手が出ないという人は結構います。
上達しないとすぐに飽きるという人もいます、私がこのタイプですが。

最後に、一緒にやる仲間がいない、ということがネックになるケースがあります。始めようとすることによっては一人ではできないからです。
バンドを組む!みたいなことがこれに当たりますね。

それで世の中にはこのような人がたくさんいるため、多くの体験会というものが開催されています。体験会の多くは無料です。
体験させて買ってもらうとか、レッスンを受け続けてもらうとか、利益誘導の側面があることは否定しませんが、純粋に世の中に何かを広めたいときにも無料体験会は有用です。

それでですね、ネットで体験会を調べると結構な確率でもう終わってしまっている体験会ばかり出てきます。
特にここ数年、コロナで人が集まって体験会を行うのが難しくなったせいもあって、何年も前の情報がゴロゴロでてきてうんざりします。

マイナーな趣味で探しているから、ということもあるのですが、マイナーな趣味であるからこそ、近くて、これから行われるものが知りたいのです。

レッスン講師を紹介してくれるWebサービスっていくつかありますが、場所で検索するのが難しかったりします。

ある程度、その趣味を始めてみるといろいろと情報が入ってくることがあると思うのです。
仲間ができればそこから情報が得られますし。
そのため、ネットで情報を探す人って初心者が圧倒的に多そうに思います。

ここにミートするWebサービス、誰かが作ってくれないかなーと思いました。
戦争の話のつながりではなく、たまたま最近、逢坂冬馬「同士少女よ、敵を撃て」を読んだのでその感想を残しておこうと思いました。

少女の成長物語、戦争と女性、あるいは国家と個人、果ては技を極めたもののその後(スポーツ選手の引退後を想像されるとよいかも)みたいな読み方もできると思います。
いろいろな観点から時代を眺めつつも、物語の構造自体はとてもシンプルで一般受けしやすい分だけとっておきの一冊にはしずらい、とのだろうと思いました。

この時代、つまり、第二次世界大戦について書かれた書籍、小説はたくさんあります。
特に小説として取り上げられやすい現場モノでは、日本軍については古処誠二さんの一連の著作がありますし、直近では(私が読んだ時期の話です)深緑野分さんの「戦場のコックたち」などがあります。

1940年からの数年、というと遥か昔のことのように思えますが、まだ100年も経っていない過去で、存命の方もそれなりにいらっしゃいます。
その時代の価値観が分からない私が誰かの行為や思考を批判することに意味があるとは思いません。
一方で、自分がその場にいたならどう行動するのだろうか、と考えてみることで見えてくるものは現代とそう違いがないように思います。

私ならこうするだろう、をゲームの主人公になったつもりで想像するのではなく、どこまでもリアルに想像し続けることは、自分の醜さを見ることに他なりません。
しかし、その醜さをさらけ出さないために私たちにできることは、勇気を持ち、あるいは能力を鍛えることではなく、そのような状況に陥らないために努力することではないかと思うのです。


年末になって国防の議論が盛り上がっています。

急激に安全保障上の緊張が高まった、ということではなく、岸田総理が防衛費のための増税を打ち出したことによるものです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221217/k10013925731000.html

財源についての議論はいろいろとあるものの、年明けにロシアがウクライナに侵攻したこと、そして台湾をめぐる緊張感が高まっていることから、日本の安全保障について議論がなされるのは良いことだと思います。

ただ、その安全保障をめぐる議論において、「これさえやっておけば日本は戦争に巻き込まれなくて安全」という方法がないことを、最初に確認しておきたいと思います。

日本が軍隊を持たないこと、専守防衛に徹すること、それだけで日本が安全であるとの議論は説得力を失いつつあります。その理由はロシアのウクライナ侵攻によって、「侵略戦争」というものが、現代においても発生しうることが明らかになったからです。

一方で、軍事力を高めることで日本が戦争から無縁でいられる、という議論が説得力を持たないのは言うまでもありません。相手の軍事行動を封じ込めるだけの軍事力は、対等ではなく、圧倒的でなければならず、また軍事行動の萌芽を摘み取るものでなければならないからです。

そもそも、日本が戦争に巻き込まれないことを目標としていいのか、世界平和を、どこの国であっても戦争しない世界を作りたいのかを目標にするのか、も議論のあるところで、仮に世界平和を目指すのだとすれば、両極端の意見はいずれもより受け入れがたいものになります。

これは、軍隊を持たないこと、あるいは一定の防衛力を保持することのどちらが戦争の抑止力になりうるか、という議論とは異なります。絶対に安心な方法なんて存在しないことと、よりよい状態に日本を保つ方法がない、ということは異なるからです。

でどうしたらいいのか、ですが、日本が選ぶ道を考える前に、私たちは、日本が戦争を始めたら自分がどうするのかをまずは考えてみるべきだと思います。
日本が他国から侵略されたら、まずは逃げるでしょう。
国内で逃げ場がなければ海外へ行くのです。
ウクライナからの難民に対する日本の世論は同情的です。間違っても、国に残って戦うべきだったなどとは思っていません。なので、日本が侵略された際に、まずは逃げ出そうと考えて非難されることはないはずです。

私は逃げるとして、誰かが侵略者と立ち向かうべきなのでしょうか。
それを、国防を仕事とする人たちに任せておくべきでしょうか。
私は、国防に従事したい人を尊敬しますし、そのような人が侵略者と戦うための支援をすることはやぶさかではありません。

一方で、そんな人が身の回りにいてほしいとは思っていません。
自分の子どもが命を懸けて国防に従事することを止めることはあっても、喜んで送り出すつもりはありません。

つまり、誰かに国を守ってほしいとは思っているものの、自分がそれをやろうとは思わない、です。
私はこの点を、このような価値観を認めるところから議論をスタートすべきだと思います。
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